外山恒一・活動年譜

1970年7月26日 鹿児島県国分市で生まれる。4才の時に福岡に移住、以後福岡で主に育つ。
1983年4月 福岡市の私立西南学院中学に入学。左翼偏向教育と云われても仕方がない同校の雰囲気に無意識のうちに影響されたようだ。しかし在学中はまったくのノンポリで、「受験競争」はイヤだなあと漠然と考えていた程度。推理作家を目指して、毎日原稿用紙に向かっていた。外山の文章技術は、この時期の修行によるもの。
1986年4月 福岡市の私立中村学園三陽高校に入学。第一期生だったため、異様に管理が厳しかった。入学後わずか一週間目にして、職員室に単身抗議、闘争の日々が始まる。教師との議論では、まず負けなかった。
9月 鹿児島県立加治木高校に転入学。ここでも、生徒管理への抵抗の日々。
ソフトな管理ではあったが、前の高校で闘争が癖になってしまったか。社会問題に目覚めたのもこの頃。放課後の空き教室を勝手に使って自主講座など開設していた。
1987年9月 福岡県立筑紫丘高校に転入学。ここでもやっぱり闘争の日々。いくら「自由な校風」を売り物にしてても、もうだまされなくなった。
9月 学校の枠を超えた高校生の政治グループ「ほんとの自民党」を結成。党員10余名。
1988年1月 「政治活動」を理由に無期停学処分。50日の長きにわたって処分解かれず。
4月 高校3年になると同時に自主退学。
5月 「反管理教育中高生ネットワーク・DPクラブ」を結成し、福岡市周辺の駅前や高校前などで、仲間を募るビラまき活動を始める。
8月 首都圏で学校当局と闘う高校新聞部員たちの自主合宿・高校生新聞編集者関東会議に参加。初めて同世代の「同志」たちに出会う。
12月 仲間を求めての全国行脚で初めてヒッチハイク
1989年1月 単行本デビュー作『ぼくの高校退学宣言』(徳間書店)刊行。
2月 印税で、福岡市南区にDPクラブの「事務所兼たまり場」として1DKのアパートを借りる。出入りするメンバーも、出版を機に一挙に増大。
3月 社会派な高校生を全国各地から発掘し、80余名を結集させた合宿イベント・第一回全国高校生会議に実行委員の一人として参加。後の「同志」の大半をここで得る。
8月 初めて路上でギター弾き語り。福岡ストリート・ミュージシャンの第1号となる。
9月 穏健リベラル路線のメンバーと過激ラジカル路線のメンバーとの対立激化によりDPクラブ分裂。もちろん外山は後者。(ここまでを「前期・DPクラブ」と呼ぶ)
1990年3月 第二回全国高校生会議(参加者80余名)。
4月 分裂による活動停滞を打破するため、活動目的で福岡県久留米市立南筑高校に新1年生として入学(潜入?)。その目的は達せられなかったが、改めて学校の内部を観察する機会となり、外山の学校論のレベルを飛躍的に上げた
6月 前期DPクラブの活動報告集『ハイスクール「不良品」宣言』(駒草出版)を刊行。
7月 神戸高塚高校で「校門圧死事件」。DPクラブは、「それでも起ち上がらない生徒」を攻撃するビラを現場で配布。この行動を機に、DPクラブの活動は急激に先鋭化した。(これ以前を「中期・DPクラブ」、これ以後を「後期・DPクラブ」と呼ぶ)
後半 高校生会議系の「同志」たちとともに全国各地の教育市民運動の集会等を「粉砕」してまわり、恐れられる。
11月 校門圧死事件をめぐるDPクラブの活動レポート『校門を閉めたのは教師か』(駒草出版)刊行。
1991年1月 日本縦断ヒッチハイク敢行。
3月 第三回全国高校生会議(参加者40名前後)。
5月 その過激な方針があちこちからの非難を招き、孤立無援となって活動停滞に陥ったDPクラブ解散
12月 路上でのギター弾き語り(「街頭ライブ」)に、徐々に取り巻きの常連が増える。これが現在に至る福岡ストリート・ミュージシャン文化の始まり。
1992年4月 尾崎豊の死に衝撃を受け、突然パンク・ファッションに(長続きせず)。
8月 ブルーハーツ・コンサート粉砕闘争
10月 東京・三鷹に文筆業の出張拠点として1DKのアパートを借りる。
11月 DPクラブの全活動史を総括した『注目すべき人物』(ジャパンマシニスト)刊行。
1993年前半 『週刊SPA!』の「中森文化新聞」に「反教育の革命児」として連続登場、一躍注目を浴びる。かに思われたが、結局たいした変化はなし。
2月 宝島社の音楽雑誌『バンドやろうぜ』に「つれづれパンク日記」連載開始(95年夏まで)。
4月 街頭ライブ・ムーブメント高揚の日々の日記『さよなら、ブルーハーツ』(宝島社)刊行。
8月 旧高校生会議系の同志と、東京で「退屈お手上げ会議」開催、全国から百余名の若者が集まる。
10月 福岡で「反共左翼革命結社・日本破壊党」を結成
11月 福岡イムズビル・寺山修司展粉砕闘争
1994年7月 公安調査局事件
12月 狂ったように執筆。街頭ライブ運動の5年間を総括した単行本用原稿『アスファルトばかりじゃない』(450枚)、恋愛自伝『恋と革命に生きるのさ・第1篇』(300枚)、アジ文『いじめられたらチャンス』(100枚)を次々と一気に完成させるも、どれも未だ刊行のメドなし。
1995年1月 阪神大震災・物見遊山ツアー
2月 東京で「だめ連」と出会い、強い影響を受ける。
3月 オウム事件などを引き金として、破壊党を「革命結社・ユルサン」に改称、「だめ連」ふうのソフト路線を狙うがうまくいかず、機関誌『ミトメン』を1号出しただけで自然消滅。
7月 街頭ライブの出稼ぎ拠点として鹿児島市にワンルームの風呂なしアパートを借りる(この瞬間、全国にアパート3部屋)。
8月 東京・三鷹のアパートを扱き払う。
10月 鹿児島のアパートを引き払う。
12月 短文集『見えない銃』(出版研)刊行。
1996年1月 『読売新聞』九州版に月1回のコラム連載開始(1年間)。
2月 前年の震災とオウム事件のショックですっかり失語症に陥り、文筆も革命運動も大スランプと化し丸7年間活動拠点としていた福岡市内のアパートを引き払い、実家に篭る。
5月 原付免許を取得、機動力を飛躍的に高める。
8月 心機一転を図り、東京・阿佐ヶ谷にワンルームの風呂なしアパートを借りて上京。免許を取得したばかりの原チャリで引っ越す。
10月 ヒットチャートから社会情勢を分析する座談会企画「ヒット曲研究会」スタート。
1997年2月 高い家賃負担に耐えきれず、やむなく東京撤退。福岡市内に6畳2間の風呂なしアパートを借りる。
5月 『じゃまーる』等を利用し、「だめ連」ムーブメントの本格的な福岡輸入を画策。新たに確立されたネットワークを基盤とした交流誌『ザ・コーネ』(「ざこ寝」の意)を発行する。
6月 「相田みつを」をコケにしたパロディ『ぺりかんだもの』発表。
8月 HP「恋と革命に生きるのさ」開設。
10月 外山恒一を編集長とした商業タウン誌『ムーブメント』創刊が内定し、計画始動するも、しばらくのちポシャる。
1998年4月 ヒット曲研究会をテープ起こしした単行本『ヒット曲を聴いてみた』(駒草出版)刊行。
同月 「自由民権運動・ラジカル九州」結成。
9月 「無職青年社」を名乗り、社歌として替え歌メドレー『青年は仕事をやめる』発表。読書会「柄谷行人研究会」スタート。
11月 「メンズリブ福岡」結成に参加。
1999年2月 「だめ連・福岡」結成に関与。
3月 ミニコミ『自慰MEN'99』刊行。
4月 「投票率ダウン・キャンペーン」展開。
5月〜7月 恋愛関係のこじれから「ストーカー」闘争を展開。周囲を巻き込んで人間関係がズタズタとなり、「自由民権運動・ラジカル九州」や「だめ連・福岡」も崩壊。 
7月 精神病院に通いはじめる。
8月 街頭ライブ10年目にして初めてのライブハウス単独ライブ。オリジナル、替え歌、モノマネと多彩な芸を披露し、30余名の客を集めた。
9月 広島のテント劇団「風狂フーガ」、京都のテント劇団「魚人帝国」の福岡公演に、現地スタッフとして関わる
10月 東海村の臨界事故を契機に反原発運動を開始し、「九州電力を叱り励ます会」結成。作ったビラはウケたが実質活動せず。
2000年2月 ミニコミ『ネオダダ短歌』刊行。
3月 東京・銭湯利用者協議会幹部・山の手緑へのテロ敢行。
4月 友人・野口英一郎が鹿児島市議選に立候補、スタッフとして活躍
10月 マルコム・マクラレン計画を着想。
11月 街頭ライブにアンプ導入。
12月 「傷害罪」で起訴される。
2001年2月 丸1ヶ月間の、鹿児島への「内省と傷心の旅」を経て、刑事裁判に臨む。また、民事でも告訴される。
3月 裁判闘争を徹底的にエンタテインメント化する決意を固め、闘争全体を「マイ・マジェスティ」(ムリヤリ日本語に訳せば「神聖なるオレ様」の意)と命名。外山恒一、完全復活!!