被告人最終陳述
被告人 外山恒一 印
私はこの約2年間、苦しみ抜いてきました。
本件において法律的な意味で「被害者」となっているA が、私の子を妊娠した事実を私に知らせた99年1月初め、私のとった態度が、彼女の私に対する不信感を生み、私はその誤解を解こうと努力しましたが、ついに一度たりとも彼女は私に心を開いてくれませんでした。
Aは、私には何も云ってくれませんでしたが、私への不満や苛立ちを、時に大袈裟に、時に歪曲して私の友人たちに「相談」にかこつけた私の誹謗中傷をすることによって晴らそうとしました。その結果、私はAらの力も借りながらそれまでの数年をかけて形成してきた福岡の若い政治運動の世界で孤立を余儀なくされ、また10代の頃からの親友であった渡辺洋一をも失ってしまいました。
孤立した私にとって、頼れるものはAの存在しかないのに、Aは私を冷たく突き放す態度を改めず、その過程で本件事案も発生しました。
その後も、私はAと何度も話し合いを持ち、お互いの誤解を解きたい旨を申し述べましたが、Aは一切聞く耳を持ちませんでした。
結局、AはFという新しい交際相手を得ることで私を必要としなくなり、私のもとを去りました。
そうして私は一人ぼっちになってしまったのです。
私は自由恋愛主義、つまり私が複数の女性と同時進行で男女の交際をすることも、相手女性が私とだけでなく複数の他の男性と同時進行で男女の交際をすることもよしとする立場ですし、Aもそれを知りながら私との交際を2年間も続けていたわけですから、Fの存在は、私にとってAとヨリを戻すことの障害とは考えず、彼女にもう一度私と交際を再開してほしい旨、何度も伝えました。
そんな私をAはただ疎ましがり、私が彼女のアパートを訪ねたら警察に通報するまでになりました。
そこで私は、99年6月中旬、私の知る範囲で唯一、私の心境を理解する能力があり得ると考えた札幌の友人・宮沢直人に相談を持ちかけました。Aは妊娠問題が発生した1月初めから、一貫して、私には心を閉ざす代わりに、不特定多数の友人・知人に、私とAとの間に起きたトラブルについて、対外的に公開していましたが、私の側からそういうことをしたのは、この時が初めてです。
宮沢は私とAとの間を数回往復し、私とAの今後の関係のとり方について「協定書」を交わしてはどうかと提起し、私もAもこれに賛同しました。
それで99年6月17日、どちらかというと私寄りの立場である宮沢と、どちらかというとA寄りの立場である原健一との2名を立会人として、正式に協定文書に署名しました。
以後、その協定に従い、1週間に1度のペースで、私とAは会うことになっていたのですが、Aがこれを遵守したのはわずか3回だけでした。彼女の協定違反行為に激怒し、私は、それもまた私の側からの協定違反行為にあたると知りながら、彼女のアパートを事前通告なしに訪れ、アパート下の路上から投石して彼女宅の窓ガラスを破壊しました。
すると、その翌日、Fから6件もの怒鳴り声の留守番メッセージが、私のアパートの電話に入っていました。これに対し私は、もともとFとは面識があったため、Fに私の側から初めて電話をかけ、私に何か云いたいことがあるのなら、留守電に一方的に怒鳴るのではなく直接に私と向き合ってよく話し合おうじゃないかと云いましたが、彼は「うるさい!」とか「このキチガイ!」とか喚き散らすばかりで、まったく対話というものが成立しませんでした。しかもその翌日には、またもやFから2件の留守電メッセージが残されており、私を誹謗中傷するような内容のことを喚き散らしておりました。私はこれに対してとくに何もしませんでしたが、この日から、頻繁な無言電話が、昼といわず夜といわず明け方といわず、私に対してかかってくるようになりました。
しばらく後、私は協定の立会人であった原をはじめ、複数のAとの共通の友人・知人から、私がFに対してイヤガラセをしているなどとAが云っているとの話を伝え聞きました。そんな事実はないので、私は否定しましたが、AはこのFの作り話を信じてしまったようでした。つい最近まで相思相愛の恋人同士であったはずの私のことを、そこまで卑劣なことをおこなう人物だと容易に信じ込んだAの裏切り的な反応を許せず、私はこの時点でAに対する恋愛感情を最終的に失いました。
Aの供述調書に添付されたAによるメモによれば、99年10月中旬、Fの自転車のカゴに私がビラを入れた、11月10日頃、Fが乗ったバスを私が原付で尾行した、私はフルフェイスのヘルメットをしていたので顔は確認できなかったが、ナンバーから私と分かった(原付のナンバープレートは車体後部についているのに、尾行している原付のナンバーをどうやって確認できたというのでしょうか?)、12月中旬、私が博多駅バスセンターのトイレから出てきたFをいきなり殴りつけ、にやりと笑って逃げた、2000年2月17日、またも私がFの乗ったバスを原付で尾行し、自宅最寄りのバス停で降りたFの横を、スレスレに走り抜け、振り向いてニヤリと笑った、2月18日、私がFの通う大学周辺をうろうろしていた、3月21日、Aのアパートのドアノブに、延ばしたチューインガムが渦巻状に巻きつけてあった、5月18日、すでにAと同棲していたFが、チャイムが鳴らされたためレンズで外を覗くと、軍手をはめ、3、40センチの棒のようなものを持った私が立っていた、7月26日、博多駅地下のうどん屋で食事をするFを、私が監視していた、7月30日、Fの大学の周りを私がうろうろしていた……などとなっています。しかし、これらはすべて事実無根です。
Aのメモの内容は、すべてFからの伝聞情報であり、A自身が自分の目で確かめたのは、ドアノブにチューインガムが巻きつけられていたという1件のみです。そのチューインガムをちゃんと証拠として残しておけば、果たして誰の唾液が検出されたでしょうか? 調べようと思えば誰でも知り得ることですから証明できないのは残念ですが、私はFが通っていたという大学の所在地すら、現時点においても知りません。また、私が5月18日にAとFの住むアパートを訪れたということですが、私が実際に彼らの居住地を知ったのは、その5日後の5月23日です。私がどうやってそれを知り得たのかは詳しく述べませんが、その日が私が本件で最初に警察に任意出頭した日であることから、経緯は容易に想像できることでしょう。
Aは、私とばったり出くわす可能性を考えて、一時期は天神などの繁華街へ出かけることすら怖くてできなかったなどと調書か添付書類のどこかで述べていましたが、それは私も同様です。私もこの2年間ずっと、Aとばったり出くわすことを恐れて、外出する際にはいつも緊張を強いられました。もちろん私の場合は、Aを恐れていたからではなく、そのような場面で私はどのような態度をとるべきか分からなかったからです。
Fがそのような作り話をした動機は、そうやってAを不安にさせることで、Aを守ってやっているという自分の存在意味を維持したいということであったろうと思われます。
しかし実際に起きていたことは、Fの主張とは逆のことです。
99年7月28日から1年以上にわたって私のアパートへかかり続けた無数の無言電話、私の実家への数回の脅迫電話、私の妹宅への脅迫電話、私の出入りする芸術グループ主宰者への私を出入り禁止処分にしろという電話、99年末に私宛てに郵送された「外山恒一被害者の会・代表 F」名義による不愉快な手紙、99年12月6日、何者かから密告があったとして「若い女性を次々と部屋へ連れ込んでは麻薬漬けにしている」という事実無根の嫌疑による南警察署私服刑事からの尋問、そして何よりも、2000年3月頃より、現在に至るまでネット上で頻繁におこなわれている私とAの実名を出した卑猥な書き込みの数々。この書き込みについて、Aは私によるものと何の証拠もなく勝手に断定していますが、内容をよく読めば一連の書き込みは、Aに同情してるかに見せかけて私を誹謗中傷することを主目的にしていることが分かります。そして、これら一連の出来事は、すべてFの手になるものと私は推測していますが、自分の身の潔白を証明するため、革命家としては本来恥ずべきことなのですが、国家権力の介入を要請し、現在、とくに書き込みの件を中心に、捜査が進められているところです。
私は、Fのさまざまの私へのイヤガラセよりも何よりも、AがFのデッチ上げた私による卑劣な行為の数々を信じたことに深く傷つきました。
そしてAは、本件傷害の事実ではなく、Fによってデッチ上げられた私のいわゆる「ストーカー行為」について相談するために警察へ行き、当然、それは冤罪ですから証拠が出てくるはずもなく、警察の側から本件傷害での告訴を勧められたというのはA自身が警察や検察の調書で述べているとおりです。また、Aは、「外山恒一をこのままにしていたのでは、私達二人はいつまでも嫌がらせを受けなければいけないので何とか厳しく罰して貰いたいと思い」告訴状を警察に提出したと警察での供述調書で、また、「二度と外山には、私やFさんの回りにつきまとい私たちに嫌がらせをするのを止めてもらいたいという気持ち」から告訴したのであり、そちらの方が、「傷害事件で外山を処罰してもらいたいということより」大きいというのが「本心」であり、嫌がらせなど「これらのような行為を止めさせるためには、この傷害事件に関して外山を処罰してもらうしかないと思いました」と検察の調書で述べています。ということはつまり、もしFへの嫌がらせについて私が潔白ならばAは私をそもそも告訴する気がなく、私を罰したいという気持ちも持っていないということになります。そして私はFに対しては断じて何も嫌がらせ等の行為をおこなっておらず、むしろ私の方が、Fによる執拗で悪質な嫌がらせの被害者なのです。告訴しない、罰しないということは、もし私がFに対する嫌がらせについて潔白であるのなら、私を罰しないでくれ、つまり無罪判決を出してくれと事実上、被害者・Aは嘆願していると考えられます。
私は2000年5月23日、本件傷害の容疑で初めて中央警察署に任意出頭させられ、田中勝良警部補からの取り調べを受けましたが、その内容は、本件事案に関することではなく、Fの主張する嫌がらせ行為の有無について問いただすという不当なものでした。そして、田中警部補は身元引受人として付き添ってきていた私の母親に、ネット上からプリントアウトした、おそらくFが書き込んだのであろう、正視に耐えないほどの卑猥で悪質でおどろおどろしい文書を提示し、私の母親がコンピュータに関して無知なことにつけこんで、それを私のやったことと誤解させるという極めて悪質な、許しがたい行為をおこないました。母親は、しばらくそのことで受けたショックから立ち直れず、善良な一般市民をこのような混乱に陥れる行為に及んだ田中という刑事は、正義感のかけらもない、公務員たる資格に欠けた人物であるとしか思えませんが、このような悪質な刑事を罰する法は存在しないのでしょうか?
私は、やってもいないFへの嫌がらせのために、警察で取り調べられ、送検され、ついにはこうして正式に刑事裁判の被告人とされたわけです。
私の悔しさ、苛立ちを一体どこへぶつければよいのでしょうか?
私は何度も自殺したいと思い、しかしもともとそんな勇気を持ち合わせていない自分に対してふがいなく思い、ますます自己嫌悪を募らせてゆくという長い長い日々を送りました。
精神科への通院も、今回のAとのトラブルによって初めて経験しました。
このような事情、事実経緯から、私はむしろ今回の事案において被害者なのは私の側であり、仮に被告人席に座るとしたらむしろAの方であるべきだと思いました。しかし、もちろん現実はそうではありません。
正式な裁判の開始を告げる起訴状が届いた時には、とにかく逃げたい一心でいっぱいでした。どうしてもう2年も経とうかという過去の恋愛事件が、いつまでも私を追い立ててくるのか、世の中は不条理だと心から感じました。今年1月半ば、くよくよ悩んでいても仕方がない、どうせ裁判は始まるのだ、裁判前日まで、一度、独りになってじっくりとものを考えようと、鹿児島へ丸1ケ月以上もの旅をしました。
その結果、S弁護士は裁判直前まで私の行方が分からず、連絡も取れない状態で、この最初の段階で、S氏は私に対してまず不信感を抱いたんだろうと思います。そして、裁判初日に寝坊して遅刻してしまったこと、これもS氏が私に良い印象を持たなかった原因のひとつでしょう。また裁判官の方々はご存じのとおり、私は5月18日の朝、S氏と共に裁判所へ呼び出されましたが、その際にもやはり寝坊で遅刻をしてしまいました。
私はS氏に一切感謝しておらず、むしろその存在は私にとって迷惑千万極まりありませんでしたが、鹿児島の件と2度の遅刻の件、この3点に関してのみS氏には真摯に謝罪します。
しかし鹿児島で独りで丸1ケ月以上内省と考察を深める、という私の決心は結果的には正解だったようで、裁判開始当日には、私はすっかり元気になっていました。それまでは、できることなら逃げたい、なかったことにしてしまいたいとネガティヴに考えていたのが、強制的に被告人席に座らせられることで、いわば退路を断たれ、自分自身の存在やその思想性を守るために断固として闘う決意をせざるを得なくなったのです。私は、みじめな犯罪人としてではなく、誇りある革命家として、この場に登場することができました。
Aは私を深く傷つけましたが、最終的に私を救ってくれたのは、その意図はどうあれ、やはりAだったのです。
私もかつてAを深く傷つけました。そして、Fという卑劣極まりない男や、「女性の人権」を旗印に彼女をただ政治利用しようとする勢力の存在のために、彼女はまだ、私との間に起きたトラブルを総括できず、つまるところ精神的な打撃から回復できずにいます。今度は、私がAを救う番です。
私は何よりもAのために、徹底的にAと対決します。
「やさしさだけじゃ人は愛せない」。私がこれまでに一番影響を受けた政治団体、ザ・ブルーハーツの演説の中にある言葉です。
私は無罪判決を受けるべきです。
なぜならば、この起訴自体が不当なものだからです。
4点、不当性の根拠があります。
1点目は、本件についてはすでに私とAとの間で、事実上の示談が成立しているということです。
事実上の示談とは、もちろん、99年6月17日に成立した「協定書」のことを指しています。協定を結ぶにあたって、私もAも、それまで互いに傷つけ合っており、どちらが一方的に被害者・加害者という性質の問題ではないという認識では一致していました。協定は、それまでの互いに傷つけ合った経緯をいったん白紙に戻し、これからどのように良い関係をとり結んでいくかという目的を持っていたもので、だからこそAは、本件傷害事件の補償などをこの協定書にあえて盛り込もうとはしなかったのです。
私は、人々が身の回りのトラブルをできるかぎり自分たち自身の手で解決する努力をし、国家権力を介入させて対立者を何らかの措置に不本意に強制的に従わせる手段を可能なかぎり避ける、そのような自立した諸個人による自律的な自治社会の実現を願っています。そのことは、「私的自治の原則」として法律の世界でも尊重されている定説的見解であり、まただからこそ警察もつい最近までは「民事不介入の原則」をきちんと遵守していたのです。
私は、事実上の示談がすでに当事者同士の間で成立していた本件事案に対して有罪判決を出すことは、法律論の基本である「私的自治の原則」を踏み外し、また、最近まできちんと守られていた警察の「民事不介入の原則」を司法自らが放棄させる重大な結果を招くことになると考えます。
2点目は、本件は政治的意図をもって提起されたものであり、「思想・表現の自由」や「言論の自由」、つまり私の政治的な自由を侵害することを目的とした違憲告訴だということです。
Aに裁判をそそのかしたのは、福岡のいわゆる左翼の無党派市民運動の世界に属する人々です。
私は、20歳前後の時期、学校における校則や体罰の問題に象徴される、いわゆる管理教育に反対する中高生の運動に専念していました。しかしその時期、左翼無党派市民運動の学校問題に関する最重要課題は、「子どもの権利条約」の批准促進でした。私は、あくまでも中高生の自由や権利は中高生自身が自らの手で闘って克ち取るべきであり、どう考えても弁護士や国会議員やPTAらが主導する性質のものとなり、肝心の中高生自身はその道具として政治利用されるだけとなってしまう他にない条約云々といった運動を、しかも子どもの代弁者ヅラをして、その実、子どもの主体的な闘争能力を無視・軽視した運動をやるべきではないと、あちこちの集会で主張し、私たちのグループが登場するたびに集会の議事は大混乱しました。その時期、福岡で「子どもの権利条約」批准促進運動の中心的役割を担っていたのが現在、Aの代理人を務めるH らが所属するX法律事務所でした。
つまり、Hら、X法律事務所のメンバーは、もともと私を政治的な敵対者として認識していたのです。
そして、現在Aが所属している「関釜裁判を支える会」、つまり元従軍慰安婦たちの日本政府への損害賠償請求訴訟を支援する政治グループの代表者で、両親との関係がうまくいっていないAの親代わりの役目も果たしている花房俊雄も、そもそも私を政治的敵対者としてみなしています。それを証明するために、ためしについ先日、6月10日に彼らの主催でおこなわれた集会へ私も参加したのですが、そのことについて花房が、「あんな奴、できれば叩き出してやりたいのに」などともらしたのを、そばにいた私の知人が聞いています。そして、私の発言に対しては、百名以上の他の参加者たちから野次や罵声が浴びせられました。
このように、私自身、左翼思想を奉じる革命家なんですが、本来手を組むべき福岡のいわゆる左翼無党派市民運動の世界で、私は完全に“異端児“として孤立し、これは誇張でも誤解でも私の被害妄想でもなく本当に、蛇蝎のごとくに憎まれています。
日本の左翼運動は、72年の連合赤軍事件などを決定的な契機として、現在に至るまで、衰退を続けています。福岡のような地方都市ともなれば、反原発の集会に行っても反天皇制の集会に行っても死刑廃止運動の集会へ行っても反差別運動の集会へ行っても、子どもや女性の人権を云々する集会へ行っても、結局重複した顔ぶれが参加しており、ただ、代表者の名義だけが異なる、といった極めて狭い、一枚岩の世界となっているのが現実です。
X法律事務所と敵対し、花房らと敵対し、あるいはいわゆる「ゲルニカ訴訟」の井上龍一郎と敵対し、河合塾福岡校の全国的に著名かつ人気のある左翼講師・青木裕司と敵対し、北朝鮮を擁護する運動の中心人物であった天野康雄と敵対し……などという私のような人間は、福岡の左翼無党派市民運動総体を敵に回すことになります。
私の母親に対して、花房が、「恒一君を鹿児島の実家へ一緒に住まわせるなどして福岡から追い出してほしい」などと要求したことからも、このことは裏付けられます。
Aはもともと、そのような運動を徹底的に批判し、それとは別の新しい魅力的な左翼運動の潮流を自らの手で形成していこうという私の主張に共鳴し、私と活動を共にしていたものですが、私との関係がギクシャクし始めて以後、それまで批判していた当の相手であるはずの従来型の左翼無党派市民運動の世界へのコミットを深めていきました。
左翼無党派市民運動の利害から見ても、私に殴られて負傷するなどの被害を訴える女性の登場は、私を政治的に潰す、つまり私の「表現の自由」「言論の自由」「思想の自由」「結社の自由」等々を剥奪しその活動を継続不能の苦境に陥らせるための願ってもいない好機であり、Aに対して優しく接し、いわばマインド・コントロールして私を告訴させることに成功しました。
もしも、このような政治的目的を持った告訴を司法が容認し、有罪とするなら、憲法上、極めて問題であることは改めて指摘するまでもなく、裁判官の方々自身、よくお判りのはずです。
3点目は、警察が立件し送検を決めた動機が、犯罪の処罰ではないことです。
昨今、警察がいわゆる「ストーカー」問題、「ドメスティック・バイオレンス」問題、「セクハラ」問題などへ介入することに慎重であることを批判する論調が多数を占めています。これは事実上、「民事不介入の原則」を警察に放棄させる、極めて危険な論調であると私は考えますが、世間一般の風潮としては、遺憾なことに現実にそのような方向へ進みつつあります。
そのような時期に、さきほども申し上げたとおりデッチ上げなんですが、私によるAとFへのいわゆる「ストーカー行為」の相談が持ち込まれた。しかもAのバックには、警察の不手際に対しては極めて厳しい左翼運動がついている。これは立件しないわけにはいかないが、当然私は何もしていないのですから、いくら捜査しても、何の証拠も上がらない。
だいたい、Aの供述調書添付のメモにある、私からのFへの脅迫電話を録音したというテープ、本当に存在するんでしょうか? メモには、警察が操作を誤って消去してしまったと、警察をなじるようなニュアンスで書かれていますが、Aはそのテープを実際に自分の耳で聞いたのでしょうか? 実際、メモにはこのミスについて、警察の「監察官室に調査を依頼していたFのところに、『そのような事実はない』という報告がくる」と、2000年4月27日頃の出来事として記してあります。私は、たしかにFに電話をかけたことはありますが、その内容は、Aのメモにあるような、「死ぬ目に会いたいのか」「学校の前ではっててやる」云々といったものでは絶対にありません。そのような内容を録音したテープの存在というのは、これもFによるデッチ上げなのではないでしょうか?
しかし、私がいわゆる「ストーカー行為」をおこなっている証拠は一切出てこないにもかかわらず、さきほどから申し上げているとおり、Aの背後には警察の不手際に対してはきわめて厳しい左翼運動がおり、立件しなければ後で問題にされかねない。
考えたくもない恐ろしいことですが、「ストーカー規制法」を拡大解釈すれば立件できそうなAに対する私のいくつかの行為は、同法施行のはるか以前の出来事で、法律運用の原則からして当然、これでは立件できない。次に窓ガラスの器物損壊容疑ですが、これも実は、Aが警察に駆け込んだ時点で、時効が成立していました。万策尽きた警察は、発生からすでに1年以上経過し、傷も完治し、しかも発生から約4ケ月後の時点でその事実を把握しながら、いったん立件を見送っていた事件を蒸し返して、本件容疑で告訴することをAに勧めたと、Aの調書でも述べられているとおりです。警察は、協定書が形式上、示談書としての体裁をととのえていなかったことにつけこんで、無理矢理に立件することにしたのです。もちろん、事実上の示談である協定書を交わした以前の行為について、もはやPTAや映倫のごとき歪んだ正義の体現者と堕した左翼運動の支援態勢をバックに、絶対に起訴するよう検察に嘆願し圧力をかけるなどの自称「被害者」A の行為は、極めて悪質と云わざるを得ません。「中途半端な正義が一番の悪なんや!」と政治結社・ダウンタウンの松本人志同志も、ドラマ『伝説の教師』の中で何度も叫んでいるとおりです。
前回の公判で裁判長が私に念を押したように、傷害罪は親告罪ではありません。にもかかわらず、警察はこの事実を知った99年7月の時点で立件しなかったのです。それは警察ですら当時、本件が本来、立件にそぐわない軽微な事件、事件性の低い事件であると判断したという何よりの証拠です。
それをなぜ事件後1年も経ってから立件したのか、しかも親告罪ではないにもかかわらず警察自らが進んで立件するのではなく、わざわざAに告訴状を書かせるという手続きを踏んでまで立件したのか、そして私が警察に最初に呼び出されたのがなぜ「ストーカー規制法」の発効するまさに前日である2000年5月23日であったのかは、もはや明らかでしょう。
本件が、「ストーカー」問題に真剣に取り組んでいない、という世間の批判を恐れたための立件であり、警察の本来の存在意義たる犯罪の防止や処罰を目的とした立件ではなかったということです。
私はそのような警察のせせこましい事なかれ主義のため、あるいは「我々はちゃんとストーカー問題に取り組んでいますよ」という警察のプロパガンダのために送検され起訴されたということです。
実際には私は、私を取り調べた田中警部補など、現場の捜査官の判断で立件の方針が決まったわけではないと推測します。世間体を気にした検察あるいは警察上層部の判断によって、むしろ田中警部補ら現場捜査官は混乱させられ、さまざまの不自然で強引な、時に違法な捜査をくりかえさざるを得なかったのだろうと同情します。
このような捜査や立件や送検や起訴を万が一、司法が容認し、有罪判決を軽々しく出すようでは、警察や検察はますます本来の任務たる犯罪の防止や処罰に全力を傾けることなく、世間の評判を気にしてのプロバガンダ起訴を安心して繰り返すことになるでしょう。
4点目は、本件が実質的に別件による起訴、つまり法的に禁止されているとする見方が法曹界においては常識の部類に属する、違法性の強い起訴だということです。
純法律学的には、「別件逮捕」「別件起訴」などと呼ぶのは、より量刑の重い容疑を取り調べたいのだが検束などするに足る確証が掴めずにいる時に、より量刑は軽いが確実な証拠のある容疑で形式上出頭させ、実際には本来取り調べたかった容疑に関して取り調べ等をおこなうことであることは、私も知っています。
「傷害罪」の量刑と、「ストーカー規制法」違反の量刑とでは、「傷害罪」の方が重いので、純法律学的には今回のような起訴を「別件」とは呼びません。
しかし、事実上はどうでしょうか?
現在の社会風潮に鑑みて、「傷害罪」で前科がつくのと、「ストーカー規制法」違反で前科がつくのとでは、どちらがより大きく社会的制裁を受けることになるでしょうか? 云うまでもなく、社会的制裁力としては、「ストーカー規制法」違反の方が、「傷害罪」より「重い」のです。
だからこそ警察もぎりぎりまで、「傷害罪」で立件する方が確実で手っ取り早いにもかかわらずあくまでも「ストーカー規制法」違反の疑いで捜査をしました。しかし、冤罪なんですから当然証拠など出てきません。そこでやむを得ず、傷害容疑で送検、という別件での立件をせざるを得なかった、ということです。
現在、「ストーカー」の烙印を押されることは、世間一般の感覚から見て極めて恐ろしいことです。「ストーカー」はほとんど差別の対象と云っていいでしょう。テレビドラマでも映画でも、敵役が「ストーカー行為」をはたらけば、善玉がどんな卑劣な手段を行使しようが視聴者は快哉を叫びます。
だいたい、「ストーカー」って一体、何ですか?
片想いや、納得いかない経緯で一方的にフラれた元恋人などが、相手に自分の想いを懸命に伝えようとすることは、普通の人間には考えられない、異常心理に由来するものなんですか? 片想いは犯罪ですか? 片想いをしている人々はみな犯罪者予備軍なんですか? 「ストーカー規制法」制定を要請する世論を刺激したさまざまの現実の事例は、本来ならすべて従来の刑法などで対処できるものです。ならば「ストーカー規制法」などというゴマカシはやめて、「片想い禁止法」でも制定すればいいじゃないですか。
まるで中世の魔女狩りのように、現在、世間では「ストーカー狩り」がおこなわれています。少しでも誰かの言動に「ストーカー」的な要素が感じられれば、実名報道はおろか、その人が厳寒の北海道の湖に身を投げるまで責めたて、追いつめることも許されるという、歪んだ正義が、社会を覆いつつあります。
原告もまた、この歪んだ正義感の持ち主です。だからこそ、花房俊雄やH を始めとする、歪んだ正義の社会運動リーダーたちに政治利用される格好のターゲットたり得たのです。司法までが現在社会全体を覆わんとしているこの歪んだ正義に手を染めるべきでは断じてない。
本件は事実上、法曹関係者の間でも違憲の疑いが強いとの説が定説化している別件による捜査であり立件であり送検であり起訴であって、これに対して裁判官の方々は、決して有罪判決など出してはなりません。
以上、事実上の示談の成立、政治的目的での告訴がおこなわれたこと、警察の本来の任務でない動機での立件であること、事実上の別件による起訴であり当然違法であること、この4点を根拠に私は本件事案を不当起訴であると断固として主張し、無罪判決を要求するものであります。
裁判官のみなさんも前回公判において判断を迷っていたようにお見受けいたしまし、また、私は国選弁護人のS氏について、その弁護士としての能力あるいは人間としての誠実さを疑っており、彼がきちんとした弁護をし得るのかどうかはなはだ不安であるため、私はあくまでも、本件は不当起訴であるから無罪判決を出すよう求めているわけですから、以下は蛇足ということになりますが、情状面についても申し述べておきたいと思います。
日本の裁判の現状においては、情状に関して最も重要となるのは被告人が反省しているか否か、つまり改悛の情が見られるか否かですが、これについての私の考えは後回しにして、他の情状面から先に申し述べます。
まず、私はこれまでに刑事裁判の被告人となった経験や、逮捕歴などは持っておりません。つまり本件が初犯であるということです。
次に、犯行動機に同情の余地があるか否かについてです。検事側は単に「性交渉の拒絶に私が腹を立てて犯行に及んだ」として済ませていますが、それはまったくのデタラメです。実際に、私は、犯行に至るまでの数ケ月間、A から多数回にわたって精神的なダメージを与えられており、その意味ではむしろ私の方が「被害者」であると思っています。99年3月8日未明における「性交渉の拒絶」は、それまで溜まりに溜まっていた、極限にまで至っていた、ガマンの臨界に達していたAに対する私の不満や苛立ち、そして被害者意識が爆発する単にきっかけとなったにすぎません。本件事件発生に至るまでの間に、彼女が私に対してどのように精神的な打撃を与えていたかについては、すでに提出したさまざまの証拠類に記されています。
さらに、再犯の可能性についてですが、私とAとの実体的な接触はもう約2年も前に終わっており、また現在、彼女への恨みや憎しみの感情は一切持っていないため、今後、彼女に対して傷害のみならず他の何らかの危害も含め、繰り返されることはまずあり得ません。
ではA以外の者に対して、私が今後暴力をふるう可能性があるかどうかですが、これは後の「反省」「改悛の情」の問題とも絡んでくるのですが、100%なしとは云いきれません。
というのも、私は暴力を必ずしも全面的に否定する思想的立場にはないからです。
暴力は、人間社会において不可避的に起こり得ることです。人は誰でも、時には殴ったり殴られたり、また時には殺したり殺されたりする可能性を持っています。自分は絶対に他者を物理的に傷つけることはあり得ないなどと100%云い切れる人間は一人もいないし、もしいたとすればその人は想像力の貧困な愚かな人間か、あるいは偽善的な人間に違いありません。
かつて死刑囚・永山則夫先輩が獄中で小説家となり、文芸家協会に加入を求めた時、文芸家協会は、人殺しを入会させるわけにはいかないとしてこれを拒否しました。これに対して筒井康隆が、「自分だっていつか何らかの形で人を殺すかもしれない」という想像力のない人間が文学者を名乗る資格はないとして、文芸家協会に抗議するとともに、自らそのような体質の団体から脱会することを表明しました。私は、この筒井康隆の発言にまったく賛同するものです。私だけでなく、今この場にいらっしゃる傍聴人の方々、そしてS弁護士、山崎検事、書記官・速記官の方、司法修習生の方、さらには裁判長をはじめ3人の裁判官の方々、誰ひとりとして、自分は絶対に人を殴ったり殺したりすることはあり得ないなどとは断言できないはずだし、もし断言できるならばやはりそれは想像力貧困か偽善によってです。法の番人たる裁判官やその妻ですら犯罪に手を染めることがあるというのは、どこの裁判所での事件であったかは忘れてしまいましたが、つい最近も報道されたことです。
また私自身の美学というか、生きる指針ですが、私は、自ら「ハードボイルト・フェミニズム」と命名している思想と、「オレリブ」と命名している思想との間で絶えず往還し葛藤しながら生きています。
「ハードボイルト・フェミニズム」の美学は、ジュリーすなわち歌手・沢田研二のかつてのヒット曲の数々の歌詞に象徴されています。自分の内面というものを極力、時にやせがまんをしてでも表に出さず、己れのルールで厳しく己れを律するという美学です。「ハードボイルト・フェミニズム」をフィクションの世界においてではありますがジュリーの曲世界よりもさらに徹底的に体現している劇画の主人公・ゴルゴ13先生に至っては、ほとんどセリフを発することもなく、「……」などと、その内面世界を一切オモテに出さず、世間一般のそれとは異なる自らの美学やルールに徹して、完全に自立した個人として主体形成を実現しています。私は、そのような人間になりたいと心から思っています。
対して「オレリブ」の美学は、中島みゆき先生の御作品の数々に象徴されています。自分の醜い、はしたない、他人に決して知られたくない恥ずかしい部分を含め、すべて子細に克明に見つめ観察し、それらをすべて吐露することによって自らを解放するという美学です。何もかもをさらけ出すそのような中島みゆき先生の珠玉の御作品の数々に、10代の頃から私は幾度となく救われてきました。
このように、私の内面には、「ハードボイルト・フェミニズム」と「オレリブ」という両極に位置する美学・思想が併存しており、私はその両端を無限に往還しながら日々を試行錯誤しつつ生き、そのことが私のさまざまの言動となって顕在化するのです。
ところでジュリーのヒット曲の一つ、「カサブランカ・ダンディ」はこのように歌い出されます。「聞きわけのない女の頬を ひとつふたつ張り倒して 背中を向けて煙草を吸えば それで何も云うことはない」というものです。ここでは、交際女性への暴力、いわゆるドメスティック・バイオレンスが表現されています。ジュリーよりも極端に「ハードボイルト・フェミニスト」であるゴルゴ13先生の職業は、なんと殺し屋です。
また、中島みゆき先生の御作品の一つ、「この世にふたりだけ」のサビは、このように歌われます。「二人だけこの世に残し 死に絶えてしまえばいいと 心ならずも思ってしまうけど それでもあなたは私を選ばない」というものです。ここでは、なんと特定の何者かに対してではなく、全人類に対する殺意が表現されています。
人間の持ち得る美学の両極、自己の内面を押し殺すかさらけ出すか、そのどちらにも、暴力の気配が感じられます。これは人間という存在が最終的に暴力という事態から逃れられないのだということを証明しているのではないでしょうか。
実は、意外にも法律によっても、暴力は禁止されていません。本件の容疑事実である傷害罪についても、刑法では、人にケガをさせてはいけないと規定しているのではなく、人にケガをさせた人に対して国家はこのように対処すると規定しているにすぎません。つまり、法律の世界観すら、人間社会において暴力が時に不可避的に発生することを前提としているのです。
また、国家は警察や、「自衛隊」などと欺瞞的に通称されるところの軍隊など、いくつかの暴力装置を所有しています。国家がその地域における単に最強の暴力団にすぎないことは、政治学の世界では常識に属するものです。私がもし、この法廷に出廷することを拒んだなら、警察が暴力を使って、強制的に私をこの場に連行することでしょう。この法廷すら、実は暴力によって支えられ存在しているのだということを、裁判官のみなさんにはよく自覚していただきたく思います。
長々と申し上げましたが、つまり暴力は人間社会において不可避的に時に発生し得る事態だということです。
ならば、大切なのは、暴力を否定することではなく、暴力に対してどのように考え、どのように向き合うかということでしょう。つまり、私たちは暴力的事態との間にどのようによりよい関係を築き得るかということです。
私はA に対して暴力をふるいました。
このひとつの暴力の例を、どのように私たちにとって有意味なものとし得るでしょうか。まず第一に、少なくとも本件について「被害者」となっているAが、いかにすれば今回の暴力から受けた精神的な打撃から回復し、今回の事件をA自身にとってそこから教訓等を得るところの多い実りある過去として、今後幸福に新しい人生を送ってゆけるかを考えることが大切です。それから、本件については「加害者」となっているが、現実の事実経緯においては「被害者」的な側面を持ち、やはり精神的な打撃を強く受けている私自身がそこから回復することが本来なら第二に大切ですが、これについては現在、私はすでにこのように元気に裁判闘争に臨めるほどに回復しております。そして第三に、この事件に、自由意志において傍聴に来ている方々や、私の開設しているこの裁判に関するホームページや、ビラやミニコミなどの印刷物をとおして関心を抱いている方々、それから職業柄、やむを得ず本件に関わることとなった国選弁護人や検事、書記官、速記官、司法修習生、そして3名の裁判官の方々にとって、私の起こした事件から何を学び、多くのそれぞれ立場も考え方も違う人々の人生の糧とし得るかが大切です。
私自身について申し上げれば、私は、今回の事件をこの2年以上もの間、何度も思い出しては心の中で反芻し、その結果、今回Aを殴打するに至ったような状況に再び陥った時に、今回よりも冷静に、対処できるようになっていると思います。つまり暴力を発動せざるを得ないほどに感情が高ぶる臨界点が、事件当時よりも高くなっているだろうということです。さきほどから申し上げているように、暴力は時に不可避的に誰もがふるい得るものですから、私は今後二度ふたたび誰に対してであれ暴力をふるわないと約束します、などとこの場で虚偽を述べることを潔しとしません。ただ、やはり暴力が発生してしまうほどの極限状況は、その被害者にとってだけではなく加害者にとっても不快なものです。ですから私は、今後できるかぎり自分が暴力をふるわざるを得ないような状況が形成されることを避けたいと思っています、と云うことはできますし、これは私の本心であって虚偽ではありません。
最後に、情状面において最も大きな争点となることの多い「反省の有無」についてです。
私は99年のおそらく3月8日未明、カッとなって思わずA を殴打しました。
しかし、繰り返しになりますが、「なぜ殴ったのか」と問われても返答に窮するのです。
これまでにもいろいろ説明らしきことを述べてはいますが、実際のところは自分でもよく分からない激しい感情が爆発して、とにかく無我夢中でAを殴打していたのでした。
それは私がこれまでに何度も主張しているように、Aに対する被害者意識が沈殿し、臨界点に向かって堆積していった結果、発生した感情なのでしょう。
相手に肉体的な被害を与えた私はこのように許されず、つまり罰され、相手に精神的な被害を与えたAは、それがどんなに大きな被害であれ許される、つまり罰されることがないというのは、私には今もってとても不条理なことに感ぜられます。
「不条理」といえば戦後フランスが生んだ偉大な小説家・カミュの代表作『異邦人』に、主人公・ムルソーが法廷で殺人の動機を問われて「太陽が黄色かったから」と答えるという有名なエピソードがあります。
これは通常、新潮文庫版の裏表紙にも書かれているとおり、ムルソーの「通常の論理的な一貫性が失われている」「不条理」な人物像を象徴するものと解釈されています。
しかし、この定説は完全に間違っています。
人が激情に駆られて他人を殴ったり殺したりする時に、はっきりと言語化できる「動機」などというものがそもそもあり得るでしょうか
政治的テロなど、明確な動機の存在する例外はありますが、普通、事後に告白される「動機」などというものは後づけ的な説明にすぎないのであり、実際にその行為に及んでいる瞬間の本当の心の動きは、どんなに言葉を費やしても、その本質に遥かに届かない深い闇の中にあります。日常生活においては忘れられているそんな人間の心の闇の部分というものが、稀に顕現することがあり、その時に法律で云うところの「傷害」や「殺人」などの「犯罪」が構成されるのです。
ムルソーはそのような、「ほんとうのこと」に決して届き得ない、後づけ的な「説明」を拒絶したのだと読むべきです。その点で、ムルソーは誠実で一貫した人間です。そしてこれは、言葉を武器に世界と対峙する文学者・カミュの、言葉についての限界の認識でもあります。もちろん、言葉を革命運動の主要な武器としている私自身にとっても、この言葉というものの限界がもどかしく、それを認めることを悔しくも感じます。しかし、言葉は無力なのです。
私は前回の公判でも申し上げたとおり、本件事実は、その背景等を含め、私自身にとってもつらく重たい体験であり、何度も思い返してはその意味を考え、それをこれからの人生における私の言動や思想の中に反映させていくつもりです。
自分でも何が「動機」だったのかよく説明しきれない異様な心の動きの結果生じた行為に対して、私は安易に謝罪などしたくありません。こんな私の態度を、裁判官の方々がどのように解釈されるかは分かりませんが、少なくとも私は、少しも改悛の情など抱いていないくせに、ただ刑を軽くしてもらいたいがために表面的に「反省」してみせる多くの被告人より、誠実であると自負しています。
だいたい、「反省」とは、そもそも何なのでしょうか。自分に科されるかも知れない量刑をできるだけ軽減してもらうために、「すみません。反省してます」というポーズをとってみせることが「反省」ではないことはわざわざ云うまでもないでしょう。私は少なくともそのような卑劣な人間ではないし、できるだけ自分に対しても他人に対しても誠実であろうと努力しています。
もちろん、「改悛の情」を示すすべての被告人が偽善者だと云うのではありません。本当に自分の犯した罪を心から悔いてそのような態度を示す犯罪者の方々も多いでしょう。また、犯罪を抑止する効果の側面から、見せかけの「反省のポーズ」を被告人に強要することにもまったく意味がないとは私も申しません。しかし私は、本件について内省すればするほど、断じて私はそのような態度をとるべきではないという結論に達するのです。
ここで、自称「被害者」A の心情をもう一度推測し、整理し直しておきましょう。
Aは、Fによる妄想あるいはデッチ上げである私の架空の“ストーカー行為”の存在を浅はかにも鵜呑みにしました。そして同時に私は、さきほど述べたような、歪んだ正義に彩られたまるで魔女狩りのような「ストーカー・バッシング」の風潮に対して正当にも危惧の念を抱き、『AERA』に見解を問われればそれに率直に応じるなど、さまざまの言論活動を展開してきましたが、それすらが、Aの目には私による「ストーカー行為」の一環としておこなわれていると映ったのは、本件告訴に際し、まずAが件の『AERA』を持参して警察へ駆け込んだという経緯からも推測できます。Aは、駐車違反の車にヒドイ傷をつけたことをかつて私に自慢気に語ってみせたこともあるように、もともと歪んだ正義感の持ち主です。H や花房俊雄がやはりA以上に悪質な、歪んだ正義感の持ち主であることは、私は10数年におよぶ政治運動の経験上、よく知っています。Fの責任が重大とはいえ、今回の経緯に関しても、Aは筋違いな被害者意識を私に対してずっと抱いていました。Aの歪んだ正義感、そして筋違いな被害者意識が私への苛烈な憎悪を抱かせるに至り、本件は告訴されました。
私はやはり、今回のような事例においては、私が安易な「反省」のポーズを見せることではなく、もっと事実の究明を要求することがより大切だと考えます。今日の「ストーカー規制法」体制下においては、いったん「こいつはストーカーだ」と烙印を押されれば、ほとんどどこまでが事実でどこまでがそうでないのかの究明は真摯になされないまま、歪んだ正義感を満足させるための魔女狩りや異端審問めいた社会的糾弾が暴走することが往々にして見られるからです。私は、魔女狩りの犠牲者にされるのはまっぴらです。そのためには何よりも事実の究明。これを徹底的におこなう以外に、自称「被害者」のA が自身の中に存在する歪んだ正義を見つめ直し、ひいては本件事案を正確に事実に基づいて総括することによって、一連の過程でやはり私と同じように傷ついた心を癒す契機とする方法はないでしょう。
私が「反省」するもなにも、まだ事実自体がきちんと究明されていないではありませんか。裁判官の方々も検事も、AやFを証人としてこの場に出廷させることが事実の究明のためには重要であることくらい理解できそうなものなのに、なぜかこれを認めませんでした。私の利害を優先すべき立場にあるS弁護士すら、私を嫌いだからかやはり単に無能なのか、これに何ら抗議していません。事実の究明がきわめて不充分であるにもかかわらずうわべだけ「反省」のポーズをとることなど、とうてい私にはできません。
ただし、語義をできるかぎり正確に一所懸命に定義しようという尋常でないほど誠実な辞書として知られる三省堂の『新明解国語辞典』、通称“新解さん”の第五版、によれば、「反省」とは、「自分の今までの言動・あり方について、可否を考えてみること」となっています。この定義に従うならば、私は充分に「反省」しているし、これからも一生、今回の事件について「反省」を続けていく決意です。
以上、国選弁護人が信頼に値しない人物であるため、仕方なく情状面について長々と自分で釈明いたしましたが、私の主張の力点は、圧倒的に情状面ではなく立件・起訴の不当性の方にあり、裁判官の方々には、その点をよく斟酌し、正当な判決、つまり無罪判決を下されるよう、よろしくお願いする次第です。
私は、国選弁護人解任請求や特別弁護人選任請求を計4度も却下され、また事実の究明のために必要な証人の申請も却下され、司法に対する信頼を失いつつあります。
かつてキューバ革命を成功に導いたカストロ先輩は、まだ政権奪取前のゲリラ活動をしていた時期に1度逮捕され、法廷の被告人席において「歴史は私に無罪を云いわたすであろう」と胸を張って宣言したといいます。私もそのようにカッコよく宣言したいところですが、憂えるべき社会風潮や、司法への不信感から、とうていそのような楽観的な気持ちにはなれません。むしろ歴史は、歪んだ正義をふりかざすAや、あるいはH やH’のようなやつらに無罪を云いわたすであろうと悲観的な思いにさいなまれます。
そのような心持ちでいる私に対して、法廷が、法律を恣意的に運用することによってこれ以上、歪んだ正義や憎悪の再生産に道を開くことに手を貸すような場ではなく、歪んでいない本来の社会正義を実現するために、違法起訴は違法起訴であると、気まぐれな社会風潮から独立し毅然とした厳格な法の運用をおこなう場である、ということを、劇的に再認識させてくださるような奇跡が起きることを、あまり期待せずにお待ちしております。
無罪判決以外のすべての判決は違法で不当な判決です。どうせ違法で不当な判決を出すのなら、私は一貫して自分は革命家であると、つまり国家の敵であることを公然と宣言しているわけですから、私はいっそ死刑判決を望みます。