日本の刑事裁判の最大の問題点

 日本の刑事裁判では、被告が「反省」しているか否かがかなり重視される。起訴事実をすべて認めて「反省」を表明すれば、多くの場合、有利な情状として認められ、程度の差はあれ、刑の減軽の対象となる。逆に、否認し、無罪を主張した場合、無罪判決が出たならともかく、有罪判決が出ると、そのことは「反省していない証拠」として被告に不利な情状として考慮される。
 日本ではあまりにもありふれた光景で、法曹関係者も含め、多くの人がこれを当然のこととして受け入れているが、実はこれは日本の刑事裁判にのみ特殊な、法治主義の基本に反する異常な慣習なのである。
 英語を勉強している時に、「I'm sorryと言うと、自分の非を認めたことになるので、使う場合には注意すること」などと習ったことはないだろうか。これは英語に限った話ではなく、むしろ世界的に主流の感覚で、逆に日本人のように気軽に「I'm sorry」的なことを言ってしまう感覚の方が変わっているのである。自分の非を認めると、当然、それを償う義務が生じる。これは契約社会つまり法が支配する社会の基本原則で、なぜ法つまり明文化された約束事が必要になるかといえば諸個人の価値観・習慣がバラバラだからである。逆に伝統的な共同性が強く残っている同質化社会では法はそれほど切実に必要とされない。日本は同質化社会だったから、法治主義が浸透していないと思われる。
 例えばイラン人6人組の窃盗犯が日本で捕まって裁判を受けた。被告の一人は「6人でやったのだから責任は6分の1だ」と主張し、裁判官は、これはイラン人として普通の感覚であるのかもしれず、日本人と同じに考えてこの奇妙な論理をいつものように被告に不利な情状として判決を書いてよいのか迷った、という話が新聞で報道されていた。
 この裁判官は、法治主義を理解できていない。
 こんな主張は、日本人が言おうがイラン人が言おうが詭弁に決まっているのである。同じことを言ったのに、イラン人なら問題とされず、日本人なら不利な情状とされるならば、単なる国籍による差別である。日本人と、このイラン人をはじめ多くの外国人が違うのは、外国人はまず、どんな詭弁を弄してでも自分の非を認めようとしない、という点であり、法治主義がうまく機能するためには、むしろこの外国人の感覚の方が望ましいのである。
 刑事裁判では、検察側と被告を含む弁護側が対立する構図になる。検察側は量刑をできる限り重くしようとし、弁護側は逆にできる限り軽く、可能なら無罪にしようとする。これを公平な立場で検討し、実際の判決を決めるのが裁判官である。この単純なしくみがうまく機能するためには、弁護側はまず無罪を主張しうる根拠を徹底的に探し、一つでもあればそれに依拠して、「被告人はまったく悪くない」と言い張り、それが無理なときは、たとえば「わざとやったわけではない」とか「道義的には相手の方が悪い」とか「捜査方法が違法である」とか、多少屁理屈っぽくても可能な限り自分の側の落ち度は棚上げして、自己正当化を図る必要がある。間違っても起訴事実をすべて認めるようなマネをすべきではない。それならば検察側の主張が正しいことになり、正しい主張に基づく求刑は当然正しいはずで、求刑通り以外の判決は間違っていることになる。まして「反省」を表明するということは、処罰されるに値する責任を認めることであり、間違っても弁護側に有利な情状になどなり得ない。起訴事実をすべて認めるのならそもそも争う余地がないのであって、裁判の必要がなく、検察の求刑をそのまま判決とするのが論理的に正しい。裁判所が正常に機能するには、弁護側は原則として無罪を主張しなければならないのである。これは、はっきり言えばグローバル・スタンダードである。ところがこのグローバル・スタンダードが、日本の刑事裁判において日本人被告が実践した場合、圧倒的に被告に不利な情状となる。「反省」がないということで、法廷の内でも外でも非難される。
 これは単なる原理原則論ではない。
 被告は「反省」を表明するのが常識で、実際にそれが被告に有利な情状となる刑事裁判が当たり前のようにおこなわれている日本では、間違いなく、冤罪率は高い。
 絶対に無罪判決を勝ち取る自信があるなともかく、微妙な事例であれば、起訴事実を否認しない方が有利だからである。そもそも日本の無罪率は0.02%、5000人に1人という異常な「狭き門」なのである(これはつまり冤罪率の異常な高さを意味しているに決まっている)。ちょっとした事件であれば、無罪を主張して「反省がない」とされ実刑を食らうより、やってなくてもやったと認めて、執行猶予で出た方がトクである。実際に警察は、この現実をただありのままに説明することで逮捕者を「自白」に導くし、日本の刑事裁判の実状に照らして警察のこの言い分は正しい。最近問題となっている痴漢冤罪事件の「自白」もこのようにして作られている。悪いのは警察ではない。裁判所が、法治主義の原理原則を無視したデタラメを率先しておこなっているからこうなるのである。また、「反省」すれば刑を軽くするというのは、国家権力の前では言いたいことをグッとこらえる人間であるか否か、つまり国家権力に従順であるか否かが、量刑を左右するということでもあり、思想・信条の自由の観点からも明白に誤りと言える。
 外山が、傷害事件および名誉毀損事件の第一審において、無罪を主張したのは、無罪判決を確信していたからではない。もちろん無罪判決が正しいとの信念はあったにしても、現実に日本の刑事裁判ではその主張が間違いなく退けられるであろうことくらい、30年も日本で暮らしている外山にはよく分かっている。外山が無罪を主張したのは、まず何より外山が原則的な法治主義者だからであり、その原理原則をないがしろにする日本の刑事裁判への批判としてである。そして実際、欧米の裁判であれば、外山が無罪判決を受けた可能性は(その可否はともかく)かなり高い。欧米は日本よりいわゆるDV的な事件に対して厳しいが、それにも増して、捜査手続きの適法性に関して厳格だからである。名誉毀損事件に関しても、欧米では犯罪の成否の基準が、言論の自由の尊重の方により重点を置いたものとなっており、上記傷害事件に増して無罪の可能性は高い。つまり、外山の法廷での無罪主張の中身は、グローバル・スタンダードに照らせば極めて平凡な部類なのである。
 もちろん傷害事件公判での外山のパフォーマンスはグローバル・スタンダードに照らしてもやはり珍奇だろうが、逆に、こうした明白に言論・表現の自由の枠内で考え得る行為に対し、裁判所が報復的な判決をおこなうことも珍奇、いやそれどころか、もしそんなことをすれば裁判所は激しい非難の対象となるはずである。もっとも、日本の裁判所が、外山の主張を被告として当然主張すべき内容とみなすような正常な法治国家の正常な司法機関であれば、外山は本気で無罪判決を勝ち取るつもりで公判に臨んだだろうから、そもそもあのような珍奇なパフォーマンスなどおこなわれなかっただろう。
 名誉毀損事件の控訴審では外山は意に反して偽装転向を余儀なくされたが、これこそまさに「反省」主義の日本の異常な刑事裁判事情が結果したものである。自らの利益を守るために、自らの思想・信条に反する陳述をおこなうことを強要するような裁判制度は間違いなく欠陥品である。人権とはまず何よりも国家権力の行使を制限するための概念であって、今回、裁判所が外山に強要した自らの意に反する陳述は、この観点からして極めて重大な、言葉の正確な定義における人権侵害である。監獄制度が自らの意に反する陳述を強要するための威嚇に利用されたも同然で、これまた言葉の正確な定義における拷問でもある。

 なお、傷害事件公判において検察側は外山に遵法精神がないないことを批判し、判決もこれを外山に不利な情状として認めたが、これも二重の意味で間違っている。
 第一に、外山はこれまで述べてきたように、かなり頑固な法治主義者である。 
 第二に、法治国家において法律を守る義務を負うのは個人ではなく国家である。たとえば刑法第199条は、個人に対して殺人を禁じたものではなく、殺人をおこなった者に対して国家はどのように対処しなければならないかを定めたものであって、法治国家におけるすべての法律はこれと同様の理由で存在している。こんなことは法律学の常識である。したがって、まるで個人が「遵法精神」なるものを持つべきかに言った検察官も、この主張を認定した裁判官もそもそも法律とは何なのかという、法律学の基本中の基本が理解できていなかったことになる。

 「反省」していることが情状酌量の対象となってしまう日本の刑事裁判の実状は、そもそも法律に基づくものではない。刑法には「反省」をすれば刑を軽くするなどとは、どこにも書かれていないからである。刑法第66条の規定は、「犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を軽減することができる」とあるのみで、「反省」の有無が情状面の大きな要素とされているのは、単に刑法のこの条文の「解釈」的運用に過ぎないのである。先述したとおり、このような解釈は冤罪の温床となるから、誤りであることは明らかである。ここで言われている「犯罪の情状」とは、動機をはじめとする犯行に至る経緯のことであると解釈するのが、犯罪の嫌疑をかけられた者の権利擁護の観点から、合理的で正しい。
 何度も言うように、人権とは個人と国家が対立する局面で個人を守るために発明された概念である。犯罪において国家と対立している個人とは第一に「犯人」とされている者であって、被害者と国家とは少なくとも一次的には対立していない。したがって、「被害者の人権」に配慮しての刑法解釈は、そもそも立論の根底にある発想が、法理論として間違っている(被害者の心情に配慮して加害者の「反省」重視に意味を認めるのは、よって誤り)。


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