革命家・外山恒一連続公演
マイ・マジェスティ
公演レポートVol.5【I FOUGHT THE LOW】
(2001.6.6 第3回刑事公判)
遅刻だけは絶対にマズい。
そう思ったから、目覚ましをセットし、故郷の母親に目覚ましTELまで依頼した上で、睡眠薬をたっぷり飲んで、前夜、夜中の12時すぎには寝た。
しかし、目が覚めたのは午前4時だった。
やはり神経が高ぶっているのだろう。
また寝ようとしたが、どうにも眠れない。
仕方なく、今日の裁判のための書類の最終チェックなどして過ごしたが、6時ごろにはもう、何もすることがなくなってしまった。
ふと思いついて、カラオケ屋で深夜バイトしているタクローを訪ねた。
「大丈夫か? ロレツが回ってないぞ」
とタクローは云った。
そのとおりだった。大量に飲んだ睡眠薬のせいだ。
「分かってる。それで、9時までここで一人で歌おうと思うんだけど」
しかし、かつては24時間営業だったタクローのバイト先は、最近、午前7時閉店に変わっていた。
それじゃあ、ということで、前に何度か云ったことのある別の24時間のカラオケ屋へ一人で移動した。
「2時間で」
最初は、寺尾聡や水谷豊など、キーの低い曲を選んで歌った。まだロレツが回っていないのが自分でもよく分かる。ジュリー、サザン、いろいろ試した。
だんだん声が回復してきたところで、中島みゆき先生の歌を連続して10曲ほど入れた。「おもいで河」「ほうせんか」「忘れな草をもう一度」「ふたりは」「二雙の舟」など。最後は、「中島みゆきメドレー」を入れた。当然、全部歌える。
これで口調も回復したし、何より元気というか勇気が出た。
9時、店を出て、寝坊する奴がいるであろうことを予測して何件かの目覚ましTELを入れた上で、裁判所へ向かう。
裁判所には、開始予定時刻30分前の9時半に到着した。
ヒマなので、他の法廷でどんな裁判が今日、おこなわれるのか、貼り出されている表を見てまわる。殺人、傷害……物騒な事件が多い。
ひときわ人だかりの多い法廷がある。
近づいて確かめると、例の、革労協(解放派)の内ゲバ事件の公判だ。どうりで、車椅子に乗った障害者や、どうみてもホームレスふうのオッサンたちがたくさんいたわけだ。裁判所職員も、警備のため大量動員されている。
喫煙所の椅子に腰掛けて、ホームレスふうのオッサンに、わざとらしく「何の事件ですか?」と訊いてみた。「よく分からん」と云う。若者がいたので、「あなたもあの、人がいっぱい来てる裁判の関係ですか、と訊く。違うと云う。解放派の弁護士の名前を見ると、こないだぼくが相談に行った弁護士である。
明らかに解放派の、マスクにサングラスの男に声をかける。
「あのう……津留弁護士の到着はまだでしょうか。ぼくも以前、お世話になったことがあるので、一言ご挨拶だけでも、と思うのですが……」
しかしマスクの男は、
「いやあ、おいでになるはずなんですがねえ」
などとと云うばかり。ぼくも、ま、いっか、という気持ちになる。
開廷時間の10時になったが、連中の裁判の方が先に始まった。
ものものしい警備体制で、傍聴人は全員、巨大な栓抜きのような装置(たぶん金属探知機)で身体検査されている。いやはやすごい。
10分遅れくらいで、ぼくにも呼び出しがあり、ぼくはようやく「会場」の304号法廷に入った。すでに10人以上の客(傍聴人)が傍聴席についている。
裁判官3名が奥の部屋から入ってきて全員が起立、その中で裁判長裁判官が、開廷の宣言をおごそかにおこなった。
パッと後ろを振り向くと、ストリート・ミュージシャン仲間の一人であるハリマが、ハッパを加えてふてぶてしい姿勢で傍聴している。ガタイもデカいし、まるで『ドカベン』の岩鬼だ。
最初の議題は、1週間前にぼくが、アテにならない弁護士の頭越しに裁判所に提出した証拠・証人申請についてである。ぼくが「被害者」Aさんに宛てて出した手紙の数々や、矢部・山の手がぼくとAさんを誹謗中傷した『情況』や『現代思想』の号、Aさんの新しい「彼氏」Fとの間の通話記録(Aさんは、Fがぼくに「抗議電話」をかけたところ、ぼくが彼に「脅迫電話」をかけたとしている)、それに最近ぼくが載った例の『SPA!』なども含まれている。
裁判長は印象的には実直で誠実な人で、ぼくが弁護士とうまく行っていないことを感じ、特別にぼくに陳述書の提出を呼びかけたのだが、その陳述書もそれらの中に含まれている。
全部合わせると、37点もの証拠になるらしい。
検事側が出した証拠類にこちらが同意・不同意を表明する権利があるように、検事側にも、ぼくが提出した証拠類について同意・不同意の表明の権利がある。
検事は、ぼくの「陳述書」を除くすべての証拠類に対して、「不同意」を表明した。
それを、なんと裁判長自ら、検事の説得にあたってくれた。
証拠類提出の書類には、それぞれの証拠について「立証趣旨」(つまりその証拠によって何が立証されるのか)を記入する欄があるのだが、ぼくはそこに例えば、「被告が被害者に対して話し合いによる解決を求めていたこと」などと書いていた。それを裁判長が、
「では立証趣旨を、被告人が書いたような内容ではなく、単に『このような書面が存在すること』と換えれば同意できますか?」
などと助け舟的に検事に云うのである。
検事は、
「それならば同意いたします」
と云う。
それをふまえて、
「ではそのように立証趣旨を変更されることに異議はありますか?」
と裁判長はぼくに訊く。
とにかく採用してくれればいいので、
「構いません」
と答える。
この調子で、証人申請以外のすべての証拠類のうち、9割方には検事も同意した。残っているのは、ぼくがFを告訴する目的で警察に提出した「被害届(告訴状)」2通(1、2)と、前述の録音テープだけだ。これらについては保留となった。
提出した証拠類について、裁判長がぼくに訊く。
「これら手紙類は、すべて活字で打たれていますが、フロッピーに保存しておいたものですか?」
「そうです。全てではありませんが、ぼくは彼女に出した手紙のほとんどをワープロで書き、手書きで書いたものもコピーして保存しています」
「このFさんがあなたにあてて書いた手紙というのは、実物がありますか?」
「あります」
と云ってぼくは、被告人席の横に積み上げた書類の山からその手紙を拾い出して裁判長に示す。
「録音テープですが、これはどのような内容ですか?」
「Aさんがぼくと別れて以降新しく交際を始めたF君が、99年7月27日、ぼくに対して、いわゆる“ストーカー行為”に対する『抗議電話』をかけたと、民事裁判での訴状では述べられています。しかし、その留守電に残されていた内容は『抗議』というよりも『脅迫』めいたものです。さらに、それに対応する形で、ぼくがF君に『脅迫電話』をかけ始めたと民事訴状では書かれていますが、実際には、『何かぼくに云いたいことがあるのなら、はっきり正々堂々と云ったらどうだ?』という内容の電話をかけただけです。すると翌7月28日、また『脅迫』めいた電話をF君の方からぼくにかけてきています。さらに先のことになりますが、F君はぼくの当時の大野城市の実家にも脅迫まがいの電話を3件ほどかけてきたそうです。残念ながらそれは録音されていませんが、2000年3月7日に福岡市内に住むぼくの妹宅へも同様の電話が1度、かかってきました」
ここで傍聴席のハリマが、
「タチ悪りィ!」
と叫ぶ。
裁判長が、
「傍聴人は静かにするように」
と命じる。ぼくはかまわず続ける。
「それらの録音された通話内容を1本にまとめたのがこの証拠のテープです」
「なぜそんな録音が残っているんですか?」
「F君の声は、すべて留守番電話に入っていたものです。そして、ぼくはF君の精神状態を極めて危険と感じ、これをありのままにAさんに伝えるために録音を保存し、さらにぼくがF君に電話をかける際にも同じように録音したものです。ただし、結局Aさんにこれを聞かせる機会はありませんでしたが」
裁判長は納得したようで、次の話題に移る。
「あなたの日記のようなものがありますが、これはどういうものですか?」
「当時、つけていたもので、やはりワープロに向かって入力する形で書いたものです」
そんなやりとりがあって、ぼくが提出した書類のうち、この時点でまだ検事の同意を得ていないのは、「乙第7、8号証」(Fの不法行為についての警察宛の被害届)と「乙第21号証」(例の録音テープ)だけとなった。
乙第1号証から4号証にあたる証人申請(A、F、メンズリブ福岡の代表でぼくとAとの協定書の立会人となった原健一、および宮沢直人)についても判断保留となった。
続いて国選弁護人のS氏が、「協定書」を「乙第38号証」として申請、認められた。
さあこれからがいよいよ、今日の裁判の本番である。
弁護士・S氏からの、(ぼくに有利な証言を引き出すための)ぼくへの訊問が開始される。
ぼくは、一歩前へ出て、証言台に座るよう、裁判長に指示される。弁護士が口を開く。
「あなたがAさんと知り合ったのはいつのことですか?」
「記憶があいまいなんですが、たぶん96年秋ごろかと思います」
しばらく考え込む。「いや、95年の秋ごろです」
「知り合ったきっかけは何ですか?」
「ぼくの同世代の友人であり、現在は鹿児島市議会議員をしている野口英一郎君が当時主宰していた若者グループのメンバー同士として知り合いました」
「その若者グループとはどのようなものですか?」
「野口君というのは、とにかくジャンルの広い人で、政治・思想・哲学といったことから、音楽・映画・ファッション、果てはスポーツに至るまで、タブーなしで議論しようというネットワークです。言葉は悪いですが、鹿児島のような“後進地域”では、そのようなネットワークを作ることは鹿児島でともすれば孤立しがちな非主流の若者たちにとって必要なものでした。ぼく自身も当時、ストリート・ミュージシャンの『出稼ぎ』などで頻繁に鹿児島へ行っていたので野口君と縁ができ、そのグループでAさんとも知り合ったものですが、時期については、さっきも申し上げたとおり、判然とはしません」
「あなたがAさんと肉体関係を持ったのはいつごろですか?」
「97年の5月29日です」
ここは笑うところだ。なんで正確に日付まで云えるのか、S弁護士に突っ込んでほしかった。そしたら、
「97年のぼくの手帳の5月29日の欄に「Aさん(ハート)」という記入があるからです」
と答えて、さらに笑いをとれたのに。
「本件事件前まで肉体関係は続いていましたか?」
「はい」
「事件後は?」
「それはどこからどこまでを肉体関係と呼ぶかによります。ロコツな言葉を使って申し訳ありませんが、挿入を伴うセックスは、事件約2ケ月後の99年5月上旬頃に1度だけありました。挿入を伴わないものは、頻繁にありました」
「それらのことは、双方の合意の上でのことですか?」
「もちろんです」
「彼女を殴った動機は何ですか?」
と訊いた後に、慌ててS弁護士が付け加える。「手短に答えてください」
「被害者意識からです」
「被害者意識とは?」
「99年のはじめ、彼女はぼくの子どもを妊娠しました。そのことを打ち明けられた時のぼくの対応がマズく、彼女に対して不信感を抱かせたようで、にもかかわらず彼女はぼくにその不平・不満をぶつけることはなく、無関係な第三者に、『相談』にかこつけたぼくへの誹謗中傷をくりかえし、そのためぼくは政治運動の世界で孤立を強いられました。また、性交渉も、挿入を伴わないという点を除いてはそれまでと変わらなく続いており、互いのアパートの訪問も頻繁にあったのですが、挿入のみは頑なに拒否されるという態度にも、ぼくは大変精神的に傷つけられていました」
「本件以外で、彼女を殴ったことはありますか?」
ここでS弁護士は「ない」という答えを引き出そうとしたのだろう。実際、警察や検察の調書ではそうなっている。
「ぼくはもともと交際相手に暴力をふるうようなタイプの男ではないんですが……これは最近思い出したことなので、警察や検察でも喋らなかったのですが、妊娠問題で関係が険悪になって間もない99年1月下旬頃に、1度だけ彼女に平手打ちをしています。それ以外にはありません」
続けて、「ちなみに彼女もぼくを99年7月1日、殴ったことがあります。2回。しかも拳で」
と付け加えると、S弁護士、
「質問していないことに勝手に答えないでください」
「すいません」
「本件殴打事件の後、あなたはすぐに現場である彼女のアパートを立ち去りましたか? それともしばらくその場にとどまりましたか?」
「とどまりました」
「それはなぜですか?」
「ぼくは、無我夢中で彼女を殴った後、ふと我に返り、もうこの関係はオシマイだと思って、『帰る』と云って部屋を出ようとしたんですが、彼女が、『帰らないで』と懇願してすがりつくように引き留めるので、その場にとどまったんです。自分でもどうしていいのか分かりませんでした」
「本件以降、『1週間に1度』くらいのペースで会っていたと彼女の調書にありますが、それは事実ですか?」
「違います。『1週間に1度』というのは、例の『協定』が成立した7月のものです。事件後、約1ケ月後の99年4月半ばまでは、『1週間に1度』どころか、ほとんど毎日のように会っていました」
「それはどこで会っていたんですか?」
「彼女のアパートをぼくが訪ねていくのが主でしたが、彼女がぼくのアパートを訪ねてくることもたまにありました」
「それは、あなたが一方的に彼女のアパートに押しかけていたということですか?」
「いいえ。押しかけてはいません。4月半ばまでは、彼女はぼくの訪問を拒否したりイヤがったりする素振りはありませんでした」
「では、その4月半ば以降はどうですか?」
「彼女がぼくの頻繁な訪問を疎ましがるようになり、ぼくの前から姿を隠して、友人宅を転々とするようになりました。それで、彼女に会える機会はそれ以前と比べて減りました」
「さきほど、5月上旬にセックスをしたというのは?」
「5月はじめにぼくが彼女に対して詫び状を書き、すると、それに対する返信がすぐに届き、また、彼女から電話で『アパートに来てほしい』と呼びだされ、そしてセックスに至りました」
「次にこの『協定書』についてお伺いします。この『協定書』作成の趣旨、それからあなたがこれを『事実上の示談だ』と主張する根拠は何ですか?」
「さきほども申し上げたように、ぼくの訪問を彼女が疎ましがり、迷惑がるようになって姿を隠しはじめたので、もう自分一人の力だけでこの問題を解決するのは不可能だと感じて、Aさんとぼくの共通の友人である宮沢直人に仲介してもらって、両者の云いぶんを折衷的にまとめる形でつくられたものです。そしてこの『協定書』は、その作成以前のことを一切白紙に戻すということでもあります。ですから、本件傷害事件についても『事実上の示談』が成立していると考えるのです」
「この『協定書』には、傷害事件に関することが含まれていませんが、なぜこれが本件傷害事件の示談となり得ると云えるんですか?」
「『協定書』はぼくが一方的に執筆したものではなく、ぼくが書いた原案を、宮沢がAさんのもとに届けて修正要求を聞き、それに答える形で双方合意できるところまで修正したりあくまでも原案を押し通したりした結果、成立したのがこの『協定書』です。その際、機会はいくらでも存在したのに、本件傷害事件に対する何らかの補償を彼女に対しておこなえというような要求は一切ありませんでした」
「彼女は傷害事件についての補償は何も要求しなかったんですね?」
「はい。『協定書』に署名する当日に、ぼくは立会人2名とともにじかに彼女に会いましたが、その際、これまでの互いの言動に対する非難がお互いにありました。もちろん本件傷害事件についても話題にはのぼっています。しかし、彼女が当時、もっともこだわっていたのは、殴られてケガをしたことではなく、あくまでも妊娠の際のぼくの対応が中心だったんです。ですから、傷害に関する条項の要求は、彼女の側からもありませんでした」
「話題にはなったのに、保障の請求はなかった、と……。話は変わりますが平成11年(99年)7月26日頃、Aさん宅の窓ガラスを割り、警察に呼び出されたそうですが、その時に警察は、本件傷害事件についても何か訊いてきましたか?」
「はい」
「どのように云われましたか?」
「当人同士でよく話し合って解決しろと云われました」
「なぜ彼女は、その時に傷害事件について立件してもらおうとはしなかったんでしょうか?」
「夫婦喧嘩をいちいち警察に通報しないのと同じです。Aさん自身、殴打事件について、当時は私的なトラブルだと考えていたし、また、殴ることは法的には『悪いこと』になるんでしょうが、彼女自身、意識的にか無意識的にか、自分の側にもぼくに殴られるに足るさまざまの落ち度があると認識していたからではないでしょうか」
「質問を終わります」
そう云って、S弁護士は着席した。
今度は、山崎検事による反対尋問だ。もちろん、検事側は、ぼくへの刑をできるだけ重くするために、できるだけぼくに不利な証言を引き出そうと画策するわけだ。
山崎検事が立ち上がる。
「あなたがAさんを殴ったことは間違いありませんか?」
「たしかに供述調書に書いてある時期頃に、彼女を殴打しました」
「そのことと、彼女が鼓膜の破れるケガをしたことの因果関係についてはどうですか?」
「正直なところ、ぼくは警察の調書などでも述べているとおり、具体的に何月何日にAさんを殴ったのか、よく覚えていないんです。警察で診断書か、彼女の供述調書を見せられて、たしかにぼくが彼女を殴った時期と一致するから、おそらく彼女のケガの原因もぼくの殴打によるものだろうと判断しました。しかし、もちろんぼく自身、9割方、ぼくが彼女の鼓膜を破ったのだろうと思っていますが、彼女の性格から考えて、すぐ他人を怒らせ、別の場所で別の人に殴られた可能性もゼロとは云えません。また、ぼく自身、『左』翼市民運動の世界に長くいたことがあるのでよく知っていることなんですが、現在、彼女の周囲にいる『左』翼市民運動家たちが、政敵を陥れ、潰すためにはどんな卑劣なデマやデッチ上げも辞さないこともよく知っています。ですから、実は彼女の鼓膜を破ったのがぼくであることは100%の可能性ではありません。もちろんさきほどから申し上げているとおり、ぼく自身も、たぶん99%、ぼくの殴打のせいだろうと思ってはいますが」
「彼女の鼓膜が破れているのを知ったのはいつですか?」
「さあ、はっきりとは覚えていませんが、ぼくが彼女を殴って2、3日後、あるいは3、4日後だったと思います」
「どのようにその事実を知りましたか?」
「Aさんにそう云われました」
「あなたに殴られたせいで鼓膜が破れたのだと彼女は云いましたか?」
「そういう話はしませんでした。わざわざ云うまでもなく、ぼくの殴打のせいだろうとぼく自身思っていたわけですから」
「そういった事実経過について、あなたはどのように感じましたか?」
「さきほど弁護士さんの質問にもお答えしたとおり、ぼくは被害者意識から彼女を殴ったのです。だから、ケガをしたのは可哀想だとは思いましたが、殴ったこと自体は、ぼくが傷つけられたことに対する反撃ですから、とくに反省の気持ちは、当時は、ですが、持ちませんでした」
「あなたが今回提出した証拠類の中に、Aさんへ謝罪する内容の手紙が含まれているはずですが、それは何に対する謝罪ですか?」
「第一に、妊娠を告げられた時に、誤解を与えるような振る舞いをしてしまったことを謝罪しました。それから、矢部史郎・山の手緑というぼくの古くからの活動仲間でもあった第三者が、この問題に政治的に介入して福岡の若い政治運動の世界をメチャクチャにしたことについて、本来なら矢部・山の手に怒りをぶつけるべきところを、彼らに介入する口実を与えた彼女を主に責める言動をくりかえしたことを謝罪しました。そして、お互いにあまり本音で不平や不満を云うこともなく、そのように誤解し合うような貧しい関係性しか構築できていなかった、それまでのぼくと彼女との交際のあり方について謝罪しました」
「ケガをさせたことに対する……」
ここで傍聴席からハリマがまた野次。
「ただの痴話喧嘩だろうが!」
検事が激高して、
「うるさいな、黙れ!」
と怒鳴る。裁判長も、
「傍聴人は静かにしなさい」
と云う。検事が質問を続ける。
「彼女にケガを負わせたことに対する謝罪はしなかったのですか?」
「していません」
また裁判長の発言で訊問が中断される。
「そこの傍聴席前列中央の背の高い男性。法廷でタバコを吸うのはやめなさい。ここは禁煙です」
振り返ると、やはりハリマである。
「吸ってません。くわえているだけです」
ハリマが抗弁する。
「いけません。ただちにやめなさい」
ハリマが渋々タバコをポケットに戻す。
それにしてもいつのまにかやたらと傍聴人が増えている。1、2、3、4……なんと24人もいるではないか! 『マイ・マジェスティ』公演始まって以来の大盛況である。
また検事の質問。
「ケガを負わせたことに対して謝罪しなかったのは、先に云った、『被害者意識』云々という気持ちがあるからですか?」
「そういう側面もあります」
「この陳述書ですが……」
検事が書類を提示した。
裁判長が、ぼくとS弁護士との関係がうまくいっていないのを理解し、また心配して、
「おそらくあなたは弁護士が主張したいこととは別のことを主張したいのだろうと思えます。それでしたら特別に、自分の見解を書いた『陳述書』を、裁判の1週間前までに提出してください」
と2週間くらい前に云われ、その通りにぼくは「陳述書」を提出していたのである。検事が、いかにもバカにしたような口調で云う。
「この陳述書は、何が云いたいのかさっぱり分からん。あなたは結局この陳述書で何を云おうとしているんですか?」
先だって、質問には手短に答えるようにと裁判長にも云われていることだし、しかし云いたいことは山ほどあるし、さて困った、どう答えたものか。
ぼくはパッと閃いて答えた。
「不当起訴だということです」
「どういう意味ですか?」
「3点あります。まず、彼女自身の問題。彼女は、ぼくのいわゆる“ストーカー行為”、これは云うなれば“冤罪”なんですが、それを解決してほしいと警察に駆け込んだんです。だけど、当然ぼくは何もやっていないんですから、“ストーカー行為”の“証拠”が出てくるはずもない。そこで警察が一計を案じて、『では1年前の傷害事件について被害届を出してはどうですか?』と彼女に提案し、彼女がそれに応じたというくだりが、警察や検察での彼女の調書(警察1、2、検察1、2)の中にもあります。つまり、本来は『ストーカー規制法』を適用したかったのに、それができなかったから、あえてすでに“過去のもの”になっていた事件をほじくり返して告訴したということです。第二に、現在彼女を取り巻いている『左』翼市民運動の問題。彼らはこの事件が起きるはるか以前からぼくを蛇蝎のごとくに憎み、嫌い、その活動を継続不能に陥れたいと考えていました。そこへ、ぼくに殴られてケガをしたという女性が登場したわけです。『訴えなさい、訴えなさい』という話がトントン拍子に進んだことは容易に想像できます。つまり、これは政治的意図を持った弾圧的な告訴だということです。最後に警察の問題。警察は、さきほども弁護士さんに対して申し上げたとおり、99年7月の時点で本件傷害の事実について掴んでいました。しかし『傷害罪』は『親告罪』ではないにもかかわらず、警察はこれを立件しなかったんです。つまり、その時点では、警察ですら、本件は立件に値しない軽微な事件、事件性の低い事件と判断したことが推測されます。それを、1年以上経た後に、むしろ警察の側から告訴を勧めた背景には、『ストーカー問題に熱心でない』という世間の批判を恐れてのもの、体面を気にしてのものだと思います。しかもAさんのバックには、警察の不手際に対してはうるさい『左』翼市民運動家たちがいるんですから、警察がピリピリするのも当然です。このことは、ぼくが初めて本件容疑に関する取り調べで警察に任意出頭を求められたのが、『ストーカー規制法』の発効する前日である2000年5月23日であることからも推測できます」
「ところであなたは現在、Aさんに嫌われていると思っていますか? それとも好かれていると思っていますか?」
「ものすごく嫌われていると思います」
「それならば、彼女のことは忘れて、言及しなければいいのに、なぜビラやミニコミやホームページで言及を続けているんですか?」
「Aさんを憎んだり、恨んだりした時期もありました。しかし、現在は違います。彼女はぼくと別れて以降、彼女がもともと目指していた方向とはまったく逆の世界に、不可避的にかもしれませんが移行してしまいました。『左』翼市民運動の世界ということですが、本来、彼女が福岡に移住してきた目的は、H弁護士たちのような人達のコマとして利用されることではなかったはずです。ぼくは、彼女と交際を始め、それがうまく行っていた約1年半、関係がギクシャクした半年間、そして誤解や妄想にもとづく彼女の側からの一方的な敵対のこの2年間、累計4年もの長きにわたって、好むと好まざるとにかかわらず、彼女と深く関係せざるを得ない境遇に身をおきました。その意味で、彼女はぼくにとって特別な存在だし、大切な存在です。彼女の目を覚ませてあげて、一日も早く、元どおりの、彼女が本来目指していた方向での人生の模索を始めてもらいたいと心から願っているんですが、H弁護士らをはじめくだらない『左』翼市民運動家たちに完全包囲された現状では、それも極めて困難に思われます。だからこそぼくは、『左』翼市民運動家たちと闘い続け、彼女を解放してあげなければという気持ちに駆られるわけです。この裁判だって、その闘いの一環です」
「あなたなりの、彼女に対する救い方だとでも云うんですか?」
「その通りです」
「あなたは暴力をふるってもかまわないと考える人間ですか?」
「暴力をふるう理由によります」
「あなたは彼女を殴ろうと思って殴ったんですか?」
「『故意』があったのか、という意味の質問であれば、ありませんでした。感情が高ぶって、つまり激情に駆られて気がついた時には思わず殴ってしまっていたというのが実相です」
「殴るつもりはなかったと云うんですか?」
「はい」
「何回ぐらい殴ったんですか?」
「これも、感情が高ぶっている時のことですからはっきりと正確に覚えているわけではありませんが、たぶん10数回殴打したんだろうと思います」
「どこを殴りましたか?」
「分かりません。とにかく無我夢中で、彼女の体中を殴り続けていました」
「起訴状によれば、『側頭部等を平手及び手拳で多数回にわたって殴打』とありますが、側頭部を殴った記憶はありますか?」
「分かりません。さきほどから申し上げているとおり、どこを殴っているのかも考慮せずに、ただ無我夢中で殴ったんですから」
「その際、被害者はどのような姿勢だったんですか?」
「さきほどから申し上げているとおり、この時期、私とAさんとの間には、挿入には至らない性交渉は頻繁に続いていました。それで、添い寝をしていたので、彼女は仰向けになっていたはずです」
「彼女は抵抗しましたか?」
「しませんでした」
「蹴ったりはしていませんか?」
「していません」
「質問を終わります」
と云って山崎検事は着席した。
裁判長が、
「それではこれから、裁判官からあなたに対して質問をします。まずは左陪席から」
「左陪席」というのはつまり、3人の裁判官のうち、裁判長の向かって右側に座っている例の美人裁判官のことである。
「あなたはさきほどの弁護人からの質問の際に、Aさんから殴られたこともあると云いましたが、それは事実ですか?」
初めて永井美奈裁判官の肉声を聞いた。某傍聴人も胸ときめいたと云う。
「事実です」
「その時、あなたは負傷しましたか?」
「いいえ。いや、病院に行ったわけではないから分かりません」
「事件について、当時は何の反省も謝罪もしなかったとおっしゃいましたが、現時点ではどうですか?」
「法的に悪いから、という理由で反省することはありません」
「結論的にはどういうことになりますか?」
「Aさんを殴ってケガをさせたことは、ぼくにとって非常に重い体験です。殴るに至るまでの過程も辛かったし、殴って以降、ますます関係が悪化していく時期も辛いものでした。ぼくは今云ったように、法律で人を殴ってはいけないと決まっているから人を殴ってはいけない、とは考えません。ただ、やっぱり後悔しているし、自分にとって重たい体験です。この体験を、何度も思い出してはその意味を考え、それをこれからのぼくの言動や思想に反映させていく、そういうふうにしか云えません。これがぼくの正直な気持ちですが、法律的に云ってこういう態度が『反省』と呼べるのかについては分かりません。ただ、ぼくはこの場でウソをつきたくないだけです」
「ケガをさせたのに、済まないという気持ちはないんですか?」
「後悔はしていますが、殴ったこと自体について『済まない』とは思っていません。ぼくとAさんはお互いに傷つけ合ったんです。どちらか一方が、他方に対して一方的に『済まない』という話ではないと思います」
「ケガの治療費について、自分から支払う意思を示したことはありますか?」
「1度あります」
「それはどういう思いからですか?」
「互いに傷つけ合った結果、こうなったんだから、半額を支払う義務はあると思いました」
「今後、まあ他の交際相手に対してということになるでしょうが、同じような形で暴力をふるうことはあり得ますか?」
「人間は、時に殴ったり殴られたり、殺したり殺されたりし得る存在です。ですから、可能性がゼロであるとは云えません。しかし、ぼくはAさんを殴ったことを後悔しています。だから、次回、誰かと同じような状況になった時に、今回のことを教訓として、ぐっとこらえるということはあると思います。つまり抑止力は強くなっているはずです」
「できるかぎりそんなことはやめようと思っているということですか?」
「もちろんです」
次に、30代半ばと見える、右陪席つまり裁判長の左側に座っている一木泰造裁判官からの質問が始まる。
「あなたはこれまでの公判で、起訴状にある容疑事実については事実と認めていますが、罪状認否においてどのように答えたかは覚えていますか?」
「覚えています。『ケガの程度については知らないが、殴ってケガをさせたこと自体は事実です』と答えました」
「それは、『無我夢中』であったことと矛盾しませんか?」
「ええ。気がついたら殴ってしまっていた、という状態でした。ハッと我に返って、自分のやった行為に驚きました」
「どうして殴ったんですか?」
「直接のきっかけは、セックスにおける挿入行為を拒まれたことですが、それはあくまでも『きっかけ』にすぎません。実際には、さきほど述べたように、それまでに至る、Aさんの言動に傷つけられ続けていたという状況があったんです。ですから、挿入の拒否ではなく、場合によってはもっと別のことが誘因となって、今回のような殴打に至った可能性もありました」
「挿入を拒まれたことも、あなたが彼女に対して被害者意識を持つことになる理由のひとつですか」
「そうです。もっと詳しく云うと、挿入を拒んだ彼女を2、3発殴りましたが、その時点では『比較的』ではありますが、まだ冷静さが残っていたと思います。しかし、それに対して彼女が、『こんなの強姦じゃないか!』と叫んだことが最終的にぼくを激高させたんです。だってぼくは、彼女とどうしてもセックスしたい、という気持ちでいたわけではありませんし、例えば妊娠問題以前のような、円満な関係の時期に挿入を拒まれたとしても、それで殴ったりは絶対にしないはずです。ぼくは、彼女とセックスがしたかったわけではなく、それまで溜まりに溜まっていた不満や苛立ちを、この日のセックス拒否を単に『きっかけ』として爆発させただけなんだということです」
「仰向けになった被害者を殴ったと云いましたが、それは、『無我夢中』で殴ったということと矛盾しませんか?」
「ですから、実際のところははっきりとした記憶がないんです。その当時の二人の関係性から考えて、ぼくとAさんは並んで添い寝をしていただろう、だから殴った時に彼女は仰向けの姿勢だっただろうと推測しているだけです」
「そういう行為は許されると思っているんですか?」
「人にはそれぞれの世界観というものがあります。法律分野の世界観というものもあると思いますが、それは必ずしもぼく個人の世界観とは一致しません。ですから、『法律で決まっているから』許されない、というふうにはぼくには考えられないんです」
「カッとなって、激情に駆られて殴ったんだから許されると思っているんですか?」
「いいえ。そういう話ではありません。今回の体験は自分にとって重い体験であり、後悔もしているけれども、『法的に悪いからスミマセン』という気持ちにはなれないと云っているんです。彼女のセックス拒否は、彼女が妊娠問題以来、ぼくに対して不信感を抱き、完全に心を閉ざしていることの象徴的行為に思えました。それはとても辛いことでした」
最後に中央の林秀文裁判長。
「まだ証拠採用するかどうかが決まっていない書証7と8(Fと、おそらくFであろうと思われるネット上でのイヤガラセについての警察への被害届)ですが、この書類を作成した動機は何ですか?」
「はい。ぼくは、99年5月半ばにAさんから一方的に別れを告げられ、それでもぼくの方に未練があったので、どうにか彼女とヨリを戻そうと努力しました。しかし、彼女がぼくに対して決して話し合いに応じないことが身に染みた99年7月26日に、『これで終わりだ!』という最後通告的な行為として彼女のアパートの窓ガラスを投石して割った後、ぼくは彼女に対して何ら悪意のあることをしていません。しかし、彼女の新しい交際相手であったF君は、彼女がぼくのいわゆる“ストーカー行為”から逃れるために友人宅を転々としていた過程で男女関係になったという経緯から、おそらくぼくのいわゆる“ストーカー行為”が止むと、彼女にとっての自分の存在意味が薄まるとでも思ったんでしょう。ぼくがやってもいない架空の“ストーカー行為”を次々とデッチ上げ始めました。しかも、彼女自身がそのF君の作り話を信じてしまって、その結果、今回の裁判や、民事裁判に発展したわけです。ですから、ぼくは、そのような“ストーカー行為”は存在していないんだということを公にするために、仕方なく警察に頼り、自らの潔白を証明してもらおうと思ったんです」
「被害届の罪名は何ですか?」
「2種類の被害届があるでしょう? ひとつはFを名指しで告訴するもので、罪名は、架空の“ストーカー行為”をデッチ上げ、ぼくの名誉を棄損した事実に対する名誉棄損罪と、その架空の“ストーカー行為”について警察に被害届を出したという事実に対しての誣告罪です。もうひとつは、コンピュータ・ネット上の、ぼくとAさんの実名を出したイヤガラセの、卑猥な書き込みがもう1年以上現在に至るまで続いていて、これもぼくはF君が犯人だと確信してるんですが、なにせ決定的な証拠がないため、被疑者不詳のまま捜査を依頼する告訴状です。さらにネット上の書き込みでは、ぼくの友人である鹿児島市議の野口英一郎君に対して、『野口はこんなイカガワシイ人物と付き合っている』という密告メールを自民党鹿児島県連宛に送るぞ、などという脅迫まがいのことも含まれているため、緊急を要すると思って、警察へ行ったんです」
「録音テープの内容について説明してください」
「まず、Aさん宅の窓ガラスを割った翌日、目を覚ますと、ぼくの留守電に6件のメッセージが残されていました。それらはすべてF君によるもので、怒鳴り声でいろいろと喚き散らしている内容でした。それでぼくの方からF君に電話をかけ、『何か云いたいことがあるなら正々堂々と云え』と云いましたが、すぐに電話を切られたので、その後もかなりの回数にわたってF君に同じような内容の電話をかけ続けました。後でAさんに自分の耳で確認してもらうために、それらはすべて録音しておきました。すると翌7月28日、また2件のメッセージが留守電に残っていて、やはり前日と同じような内容と口調でした。さらにさきほども申し上げたとおり、F君はぼくの当時の大野城市の実家へも脅迫めいた電話をかけてきました。それらは残念ながら録音が残っていません。2000年3月7日には、福岡市内に独り暮らしをするぼくの妹の家の留守電に、F君からのメッセージが1件、残されていました。やはり脅迫めいた内容で、妹は怖がって、電話番号の変更を余儀なくされました。以上を1本にまとめたものがそのテープです」
「全部で何分くらいありますか?」
「40分くらいです」
「民事訴訟の方の進行状況はどうなっていますか?」
「次回公判が7月3日で、ぼくの30分の弁論、それからAさんの代理人弁護士であるH さんからのぼくへの30分の訊問、それから、ぼくとH弁護士によるそれぞれ30分ずつのAさんへの訊問が予定されています」
「あなたの親族、両親でも兄弟でもかまいませんが、今日、あなたに対する裁判がおこなわれていることを知っている人はいますか?」
「母親は知っています。遅刻しないように、目覚ましの電話を毎回頼んでいるので。父親や妹・弟は、もしかしたら母親から知らされて知っているかもしれませんが、ぼくには分かりません」
「現在のAさんの居住地は知っていますか?」
「知っています」
「どこですか?」
「〇〇です」
「加療43日間という日数、鼓膜を破ったという暴行は、傷害事件として決して軽いとは云えませんよ。そのことをどう考えていますか?」
「何度も申し上げているとおり、ぼくにとっても非常に重い経験です。でも、鼓膜って案外簡単に破れますよねえ」
「傷害罪は親告罪ではないことは知っていますね?」
「知っています」
「つまり、Aさんがあなたを告訴しなくても、警察や検察が告訴の必要ありと思えば立件されます。そのことは理解した上でいろいろな主張をされているのでしょうね?」
「はい」
「あなたの母親が警察と接触を持ったのはいつ頃からいつ頃までの期間ですか?」
「99年5月23日にぼくは任意出頭し、その身元引受人として母親が警察へ呼ばれて事情を説明されています。その後も担当の刑事から何度か電話などがあったようですが、詳しくは知りません」
「S弁護士は除いて、あなたが今回の裁判のことに関して、もっともよく相談している相手は誰ですか?」
「宮沢直人さんとH伸雄さんです」
それで裁判長からの質問は終わった。
「一言だけ質問させてください」
とS弁護士が立ち上がった。「あなたは今後、独り暮らしをやめてご両親と一緒に生活することを考えていますか?」
「考えたこともありません。たぶん、ないと思います」
質問の意図が分からない。いや、そういえば昔、ぼくの母親が警察の仲介でAさんに会った時に、両親とうまくいっていないAさんの親代わりとして付き添ってきたという、従軍慰安婦問題の「左」翼グループのリーダー、花房ナニガシってクソジジイが、「できれば恒一くんを鹿児島の親元へ移してくれないか」などと云ったという。とにかくぼくを福岡から追い出すことが、「左」翼連中の目標なのだ。H 弁護士も同じことを考えているに違いない。そしてS弁護士がこんな質問をわざわざ唐突にしたということは、HとSは裏でつながっているということだ! なんてことだ。みなさん、私選で弁護士を雇えない貧乏人が、いかに公正な裁判を受ける権利を与えられていないかということが、これでよぉく分かりましたね。
裁判長が、保留にしてあった3つの証拠と4人の証人の申請をすべて却下した。理由を聞いても、
「必要ないと判断しました」
という以上のことは答えようとしない。
裁判に詳しいある傍聴人によれば、ぼくが「改悛の情」を見せないので、裁判長の心証を悪くしたのだろうという。だから、裁判開始時は検事を説得して次々と証拠申請に同意させたのに、この最後の段階では、ぼくの要求を蹴ったのだ、と。これまたなんてことだ。そんなことで裁判の行方って左右されるのか。まあ裁判長も人間だから、感情を持った生き物だということは当然分かっているけれども、なんか釈然としない。だいたい、刑を軽くしてもらおうと思って、心にもない「反省」を口にする被告人よりも、よっぽどぼくの方が誠実だと思うんだけど。違う? どうなんだ、おい!?
最後に、次回公判の日程が決められた。
6月20日午前10時半から1時間の予定だという。これまでずっと、ひと月おきに刑事、民事、刑事、民事……と続いていたから、次はたぶん8月だろうと思っていたのに甘かった。
しかも、次回で結審だという。次回は、弁護人が最終結論を述べ、検事も最終結論つまり求刑をおこない、ぼくが最後の発言の機会である「最終陳述」をおこなうという、そういう内容になるらしい。
なんか納得いかないが、だんだんペシミスティックな気持ちになってきた。だいたい、人間の実存とか、観念とか、文学とか芸術とか、そういうビミョーさが決定的な差異になる領域を理解する感性を持った人間は、そもそも弁護士も検事も裁判官も目指すわけないからなあ。文学者であり音楽家であり革命家であるぼくが、法律の世界で勝利する可能性など最初からゼロなのである。
ま、いいや。こうなったらトコトン楽しむまでさ。
そんなわけで次回結審、たぶんその1ケ月か2ケ月後だと思うが次々回が判決です。まあ、不当にも有罪だろうから控訴するけど。
ところでぼくは隣の法廷で裁判をやっていた革労協(解放派)の連中にはすごく誤解された嫌われ方をしている。敵対党派のメンバーだと思われているのだ。ぼくは単なる吉本先生派なのに、そういう概念、連中にはないからなあ。人当たりのよさそうな奴に声かけて誤解を解いておけばよかった。
で、隣でそのニックキ外山恒一の裁判があってるらしいぞってことで、革労協のメンバーだかシンパだかが数名、途中から偵察傍聴に来ていたらしい。それにくっついて、ガードマン的役割を負わされている裁判所職員もやはり数名、「裁判所」と書いた腕章をつけて傍聴席にいたということだ。どうりでやたら人数が多いような気がしたわけだ。しかも最初、職員が来たのは傍若無人なハリマを監視するためなのかと思っていたのだが、どうやらそういうわけで違ったらしい。
そういえば、傍聴席には珍しい顔もいた。ほんの10日くらい前に初めて行った地元のテント劇団「上海ソウメン工場」の座長が来ていたのにも驚いたが、もっと存在の理解に苦しむ傍聴人がいたのだ。
詳しくは別の文章で確認してほしいが、98年初頭、ぼくが福岡で形成した『じゃまーる』交流圏分裂のきっかけを作った鬼畜系サブカル女・ヘンリーである。裁判が終わって、廊下に出てから気づき、「よっ!」と声をかけたのだが、無視してスタスタ帰っていった。ぼくと別れて以降、Aさんはヘンリーとの友人関係が復活したらしいという噂は耳にしていた。あくまでも単純な傷害事件として、政治色を隠してオモテに出さないようにしているAさんサイドだが、こちらの傍聴人動員に焦って対抗してきたか? 従軍慰安婦関連をはじめ「左」翼市民運動家が傍聴に来ちゃ、政治色が強くなってしまうので、無害なヘンリーを送り込んだ? うーむ。謎だ。
ところで次回公判のぼくの「最終陳述」ってのは、あらかじめ自分で書いて用意した原稿を法廷で全文読み上げるというもの。長さに制限はないし、内容も自由だ。格調高く、かつ笑え、しかも裁判官の心の琴線に触れる原稿にしなくては……。文才が試されるなあ。
次回公演 2001年6月20日午前10時30分より304号法廷(刑事第4回)
7月3日午後午後1時30庵より108号法廷(民事第3回)
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