答弁書
福岡地方裁判所 民事部御中
2001年3月27日
平成13年(ワ)第471号 損害賠償請求事件
原告 A
被告 外山恒一
〒815-0083 福岡市南区高宮4-14-35 被告 外山恒一 印
請求の趣旨に対する答弁
1.原告の請求を棄却する。
2.訴訟費用は原告の負担とする
請求の原因に対する答弁
第1.当事者
1.訴状中、唯一、争う余地のないところである。
2.被告は、「フリーのライター」ではなく「革命家」である。
第2.被告の不法行為
1.原告とは95年もしくは96年に鹿児島で友人を介して知り合った。97年5月、原告が福岡に転居してまもなく、肉体関係を含む交際がはじまった。 原告が福岡に転居したのは、「職を求めて」ではなく、「鹿児島での演劇活動に限界を感じて」である 。
2.原告は、被告を中心として97年春ごろから始められた政治運動の主要な関係者であった。これが98年に入ってまもなく分裂し、 被告・原告を含む4名で、5月に正式に政治団体「自由民権運動・ラジカル九州」が結成されたが、原告は、5人目のメンバーを自ら勧誘して獲得するなど、積極的にその活動にたずさわった 。
しかし、98年はじめの分裂に際し、被告が打ち出した「分裂を肯定し、むしろこれを運動再興の積極的契機とする」という方針に原告は完全には納得していなかった様子で、また、「自由民権運動・ラジカル九州」の活動においても、原告は自分が「女だから」軽んじられているのではないかなどと誤解に基づいて思い悩んだ様子で、被告の長年の活動仲間として被告から紹介された東京在住の山の手緑(ペンネーム)に電話で相談を始めた。その「相談」には、被告が「女目当てで仲間集めをしている」などという事実無根の中傷も含まれており、原告の「悩み」の根底には、被告が従来より公然と表明していた「1対1恋愛イデオロギーの超克」「自由恋愛」などの信条に対する、嫉妬や警戒の感情があったことが推測される。このように、その運動方針などをめぐって、原告と被告の間には対立があったが、当時まだそれは潜在的なもので、8月に、前記・山の手らが主宰する東京の政治団体「銭湯利用者協議会」と共催した「水俣合宿」の際、山の手らの口から間接的に、原告が抱く被告の運動方針への批判が代弁的に表明されることがあった程度で、被告・原告の直接の対立としては顕在化しなかった。なお、交際当時から現在に至るまで、その言動において一貫性を欠く原告が唯一一貫させているのは、常に自らを安全圏に置き、「女は常に被害者」という女性差別的な信念や感性から「代理人」的役割を果たす第三者を利用して、被告を指弾するやり口のみである。
12月末、 被告の個人誌「発表!! 外山恒一98年50大ニュース!」 において表明された被告の自由主義的な恋愛観・恋愛方針について、原告が大いに泣くなどして、両者の間に初めて直接の対立が顕在化した。
翌99年1月上旬、被告は原告の口から妊娠の事実を知らされたが、これに対し被告は「産む産まないは女が決める」という従来の信条から、産むにせよ中絶するにせよ、黙って原告の自発的な決意を待つべきだと考え、一切の口出しを自身に対して禁じたが、これが原告には、被告の当事者意識の欠如と感じられたようで、前年以来の対立が深まった。原告は、被告の態度への不満を、被告に対して直接打ち明けることは一切なく、被告の長年の活動仲間である東京在住の鹿島拾市(ペンネーム)や上記・山の手、またこの時期、「自由民権運動・ラジカル九州」と友好関係にあった「メンズリブ・福岡」代表の原健一などに対して表明し、相談するようになった。これは、被告と原告の間に発生したプライベートな問題の存在を第三者に口外して介入を求め、つまり最初に私的な問題を公的な政治問題化させたのは原告の側であることをも意味する。このような経緯から、原告から相談を受けた上記の者たちの中には、被告に対して、批判的にアドバイスを始めた者もあったが、被告は「これは私的な問題だから」と彼らの介入を拒否すると同時に、原告の誤解をとく必要を感じ、正確な日時は不明だが、中絶直前の頃に1度、数時間にわたって、妊娠や出産、子育てなどの問題をどのように考えているかを原告に詳しく説明した。それは、前記のような、「産む産まないは女が決める」というこれらの問題を考えるに際しての被告の原則から、「自分が当事者である問題に関してすら、現実感を喪失してしまっている」という被告の存在感覚の表明まで、多岐にわたる内容を含んでいた。原告はこの際、とくに反論もせず、黙って被告の話を聞いていたため、被告は原告が被告の立場を少なくとも知解したものと判断した。この件に関しての、訴状にあるような原告の解釈は、当時抱いたものか、それともその後の経緯を経ての原告の被告に対する感情の悪化、あるいは原告自身の思想的変質によって記憶そのものが歪曲された結果表明されるに至ったものかは、判然としない。
1月19日、原告は中絶し、その際、被告も病院に付き添った。当時、原告アパートには原告の友人が居候していたため、被告は被告アパートにて静養するよう勧めたが、上記のような経緯によって醸成された被告への不信感から、原告はこれを拒否した。
被告は、原告が落ち着きを取り戻すのを待とうと、被告の側からの積極的な連絡はしばらく控えることにしたが、これが逆に、原告の被告に対する不信感を増大させる結果となったらしく、中絶から約1週間後、原告は、北九州市へ所用で出かけていた被告の携帯電話を鳴らし、被告が出ると、「どうして何の連絡もしてくれないのか」などと一方的にわめき散らした。被告が、「すぐに(原告アパートに)行くから」と告げると、原告は一方的に電話を切った。被告が、北九州から福岡市内へ戻る途中にも、原告は再三にわたって電話をかけ続けた。
またこのさらに数日後、被告は「自由民権運動・ラジカル九州」のメンバー・伊藤謙児が当時主宰していた別団体「だめ連・福岡」の集会に参加するため、被告アパートに原告を残したまま外出したが、原告はこれを不満に感じ、被告の携帯電話をくりかえし十数回も鳴らし続けた。そのため被告は、集会参加をあきらめて被告アパートに引き返さざるを得なかった。被告はアパートに戻るなり、原告に対し、「自分のやってることがメチャクチャだってことが分からないのか」と怒鳴って、1度、平手打ちをした。この際、被告は、原告から別れを告げられることを覚悟したが、原告は無言で泣き続けるばかりで、被告アパートを立ち去る素振りを見せなかった。
原告が被告と別れる決意を固めたのは、後に述べるようにこれら原告の妊娠をめぐる一連のトラブルよりさらに約3ケ月後の4月末頃に、F との交際が始まったことによって、精神的依存対象として被告を必要としなくなったためであり、中絶後すぐに被告と別れる決心をしたというのは原告の不可避的な記憶の歪曲化によるものかもしれないが、「別れ話を切り出した」などの主張に至っては完全に虚偽である。
3.3月8日未明、被告は原告を殴打し、負傷させたが、「性関係の拒否」は被告の主要な動機ではない。原告はそれまで、深刻化してゆく恋愛関係における不和を当時者間の話し合いによって解決したい旨の被告の再三の求めを頑なに拒絶し、同時に複数の第三者に「相談」にかこつけた被告への誹謗中傷をくりかえし、不和になる以前と変わらない頻繁な相互の訪問と性行為は続いていたものの挿入行為のみを頑なに拒絶するなどの態度を、被告に対してとり続けた。被告の原告への苛立ちや怒りはこうした経緯により次第に醸成されていたもので、3月8日未明における「性行為の拒否」(挿入の拒否)は、単に殴打を誘発する引き金となったにすぎない。
被告は当時も今も、原告をあくまでも「自立した個人」として扱っており、自立した個人ならば、不当な理由で殴られたと感じたら、少なくとも殴り返そうという素振りくらいは見せるべきだと考えるが、この時、原告はただ無抵抗に一方的に殴られ続けることを甘受したことから、原告が自身にも殴られるに足る原因があるとの負い目を認めていたと判断せざるを得ない。
また直後、無言で現場の原告アパートを立ち去ろうとした被告の態度に、被告の心中に発生した別れの決意を敏感に察知して、これを「帰らないで」と懇願して引き止めたのは原告である。
4.上記末尾のような経緯によって、原告にまだ被告との交際を続ける意思があると判断した被告は、やはり当事者間の話し合いによる問題解決の可能性を感じ、頻繁に原告アパートを訪れ、話し合いを求めたが、原告は訪問自体は拒絶しなかったものの、話し合いには応じようとしなかった。翌4月半ば頃から、原告は被告を避け、被告の前から姿を隠すようになった。原告は、友人宅を転々としていた様子で、この過程で、Fとの交際が始まった。
なお、Fは97年末頃、前記・原の主宰する「メンズリブ福岡」の集会に参加したことで被告と知り合い、被告の勧誘を受けて「自由民権運動・ラジカル九州」の活動拠点たる被告アパートを時折訪れるようになったものである。原告がFと知り合ったのは、このためである。
5. 5月初め、被告は、これ以上の話し合いは不可能であることを感じ、原告にその旨書き送った ところ、 原告はこれを承認すると同時に、それまで原告が被告による話し合いの求めを頑なに拒絶し、第三者の介入を招いて事態をさらに混乱させてきた経緯を詫び、今後恋愛関係はもたないものの話し合いには応じる決意を表明する旨の返信を被告に書き送った 。その返信においては、原告の決意の証明として、翌週の転居予定地の住所が明らかにされていた。
また、上記の手紙との前後関係は必ずしも定かではないが、被告の記憶では、その手紙の数日後、原告は被告を転出直前の原告アパートに呼び出し、両者の不和が表面化して以後初めて、挿入を含む性行為をした。この訪問の際、原告は、まだ被告への恋愛感情を持っていることを、口頭で表明した。
原告は転居し、被告は、自身の側からは原告に対して何の連絡もとらない決意を固めていたが、 原告は、まもなく被告に対して数回、電話連絡をした 。これに対応する形で、被告の側からも、原告への電話連絡を開始したが、原告の態度が、話し合いを拒絶する従来と変わらぬ態度だったために腹を立て、6月上旬、被告は原告アパートを訪れ、強硬に話し合いを求めたが、原告はまたもこれを拒否、警察に通報した。なお、この際、被告は当初、酒を飲んでおらず、原告アパートのドア前で、土産として持参した酒を退屈しのぎに飲み始めたものである。また、原告は警察に通報してから、数人の警官が到着するまでの間、新聞受ごしに被告の手を握り、無言で泣き続けた。
被告は一時警察に留めおかれたが、まもなく放免され、直後に被告は、原告とも面識のある札幌在住の古くからの活動仲間・宮沢直人に携帯電話から連絡をとり、一連の経緯を打ち明け、逮捕覚悟でまた再度原告アパートを訪れる決意を表明した。しかし、宮沢が緊急の来福と問題解決のための努力を約束した ために、再度原告アパートを訪れる意思を喪失し、その日はそのまま被告アパートへ帰宅した。なお、原告・被告のプライベートな問題を、被告が、当事者間のみで話し合うことに限界を認め、第三者に対して積極的に打ち明けたのは、この時が最初である。 宮沢は数日後、約束どおり来福し、被告と原告の間を数度往復、両者の主張を折衷的にまとめた「協定書」の作成を提起した 。被告・原告ともこの提起を承諾し、6月17日、宮沢、前記・原を立会人として、被告アパート最寄りの西鉄高宮駅付近の喫茶店で、作成された 「協定書」 に署名捺印した。
契約成立の後、原告・被告は宮沢を伴って、近くの居酒屋へ移動し、さらに被告アパートへ移動して、夜遅くまで談笑を続けた が、この際、原告の帰りの遅いのを心配したFが中央警察署に駆け込み、説諭されて帰されている。
また、宮沢はまもなく札幌へ帰ったが、滞在中、不眠などを訴えた被告に対して精神科への通院を勧めたため、被告はこれに従い、6月21日から精神科へ通院し、精神安定剤と睡眠薬を処方されるようになった。
6.「協定書」第3項の規定にもとづき、 7月1日から1週間に1度の、原告と被告との直接会談が開始された 。被告は、プライベートな問題に関する話し合いであり、またその過程で双方ともに激昂する可能性があることを考慮し、どちらかのアパートでの会談を要求し、原告もこれを認めた結果、被告アパートでの会談が主となった。被告は、「協定書」第8項の規定にもとづき、手紙についてはこれを自由に原告に対して書き送ってよいこととされていたが、あまり頻繁な手紙は原告に心理的負担を与えるだろうと考慮し、手紙はできるだけ出さず、かわりにノートに自身の思うところを書き綴るから、会談の際にそれをしっかり読んでもらえないかと原告に前もって提案したところ、原告は被告のこの心遣いに感謝し、必ずノートを読む旨、約束した。ところが、実際にノートを見せると、原告はこれを読むことを億劫がって拒み、「協定どおり会うことは会ったのだから充分だろう」というような態度で、ろくに話し合いもせず立ち去ろうとしたので、被告は怒りを感じてこれを強引に引き止めたものである。なお、「協定書」第3項の規定にもとづき、会談の際、被告はアルコールを摂取したことはない。
7月8日の2度目の会談の際、被告は、意見が食い違うとすぐにヒステリックになる原告の欠点を指摘し、当時被告が処方されていた精神安定剤の服用を原告に対して求めたが、原告はこれを被告による何らかの策謀と疑った様子で、服用を拒否した。
7月15日は、原告の意向に配慮して、天神の警固公園で会談をもったが、ここでも原告は、やはりしっかりと話し合いをしようという被告の申し出を疎ましがり、少しでも早く会談を切り上げて帰ろうとする態度であった。
原告は、7月22日の4度目の会談を直前にキャンセルし、またそれを代替する形で26日に延期された会談も、当日になってこれを拒否する旨の電話連絡を被告におこなった。原告が主張した、この2回にわたる会談中止の理由は、とうてい被告を納得させるに足るものではなかったため、被告は契約不履行(第3項違反)と判断して激怒し、これが被告の側からの契約不履行(第10項、12項違反)にもなることを覚悟した上で原告アパートを事前通告なしに訪れ、強硬に会談を要求した。原告がこれを拒否したため、契約破棄の意思を原告に対してわかりやすく伝えるデモンストレーションとして、被告は原告アパートに投石し、その窓ガラスを破壊した。被告は当然、これによって「協定書」が無効になったことを自覚しており、この日のうちに、 自らの見解を伝えるメール を原告に対して送った(「協定書」第9項違反)。
そのメールであるが、被告が激昂していたために文体が激しい印象を与えてしまう可能性は被告も認めるが、そこで表明されいるのは、あくまでも「対等で自立した人間同士の付き合い」を原告に対して求める意思であって、それを「脅迫」などと簡単に切り捨てる訴状文面は、交際当時から現在に至るまで被告に多大な精神的苦痛をもたらし続けている、原告の思慮の浅さを象徴するものである。
このように、7月26日から27日にかけて、被告からのいくつかの協定違反がおこなわれた事実があり、またこれまで述べた経緯から原告もまた第14項に終始違反し続けていた疑いが濃厚だが、しかし「協定」破棄の正式な通告は、原告からも被告からもなされていないため、この「協定書」は、現在もまだ効力を持っている(第16項)と考えられる。被告の考えるところ、「協定書」は、緊急的意味では双方のパニックを回避するために定期的な話し合いの場を設定することが課題となってはいたが、そこに盛り込まれた精神は、◯当事者間の心理的・物理的暴力を最小限に食い止めること、 当事者の日常生活をいたずらに紊乱しないこと、◯不一致点・問題点については、当事者間の話し合いによる解決を優先すること、◯この間の行き違いやトラブルについて、当事者は双方ともに根本的な内省・考察をおこなうこと、などであり、被告は、前記7月26日から27日にかけての数時間だけの行為を唯一の例外として、それ以前も、以後現在に至るまでも、この「協定」とその精神を遵守してきた。
しかし本件裁判の提訴は、明らかに原告側からなされた「協定」違反行為(第11項)であり、被告は自己を防衛するためにやむなく同様の違反をおかし、後に述べるとおり、Fと、正体不明のネット上での悪質な書き込みの犯人とを、刑事告訴せざるを得ない状況に追い込まれたことはまことに遺憾である。
7. 7月28日、原告の新しい交際相手であるFからのメッセージが、被告アパートの留守番電話に4件、翌29日にさらに2件、残されていること に被告は気づいた。その内容はとうてい「電話で抗議」と呼びうるものではなく、むしろ脅迫と呼ぶべきものであった。 被告はすぐに、かつて「自由民権運動・ラジカル九州」に関わり、もともと面識のあったこのFに対して電話をし、冷静な話し合いを求めたところ、Fはこれを拒否、「うるさい、キチガイ」などと叫んで一方的に電話を切った。これに憤慨した被告は、その後、数時間にわたって、「話し合いに応じるまでかけ続けるぞ」と通告しながらFに電話をかけつづけたが、Fはこれを一方的に切ることをくりかえしたため、被告は呆れて、以後、Fの非礼を追及することをあきらめた 。なお、この直後から被告に対する頻繁な無言電話が、1年以上にわたってくりかえされるようになった。また Fは、翌8月から、大野城市にある被告の当時の実家に対しても、脅迫じみた電話をかけ始めた 。
被告は、Fの言動に精神的異常の徴候を認め、原告とFの交際が円滑に進むためにも事実関係を原告に伝えることが必要だと感じて、警察沙汰になりかけていた窓ガラスを割った件と共に、このF問題を話し合うために、 「あと2回」の直接交渉を求める内容の手紙 を前記・原に託して原告に届けてもらったが、原告はこれを読むことすら拒否した。さらに、被告は前記・宮沢に依頼して、 被告自身の手紙 を同封した書簡を原告に対して書いてもらったが、 原告は宮沢による短い手紙は読んだものの同封された被告の書簡についてはやはりこれも読むことを拒否して、被告の呼びかけに応えることはなかった 。このため被告は、ガラスを割った件についての自分の見解と、Fによる被告へのいやがらせ行為の実態について原告に伝えることを最終的にあきらめた。また、このような原告の不誠実さにほとほと呆れ果てた被告は、以後、原告とこれ以上かかわり合うことを断念した。
8月19日、被告は原告アパートの窓ガラスを割った件で中央警察署に任意出頭を求められ、これに応じたが、前記のとおり、被告自身がすでに原告との連絡を断つ決意をしていることを伝えると、警察はこれを認め、再び同じようなことを被告がくりかえしたら検挙もあり得るとの警告を被告に発するにとどめた 。
なお、原告がさらに転居した事実そのものについて、被告は、前記7月26日を最後に原告アパートを訪れていないため、しばらく後に共通の友人を介して情報を得るまで、これを知らずにいた。また被告は、原告の新しい転居先を、転居の事実を知らせた友人に対して詮索せず、他の方法で調査することもしなかった。
またFは、翌2000年3月頃まで半年以上にわたって、前記した被告の当時の実家や、 福岡市内に住む被告の妹宅に対して まで、数回、脅迫電話をかけている。このため、被告の妹は、電話番号の変更を余儀なくされた。
8.10月、被告は高校時代に片想いの対象であったCと約10年ぶりに再会し、交際するようになった。この喜びから被告は幾分、気力を回復して、10月5日を最後に、精神科への通院もやめた。同時に、これまで述べたような 一連の経緯に触れ、これを過去のものとして自らの政治運動の再建を宣言する旨の文書 をビラの形式で製作し、友人・知人に配布しようとした。被告はこのビラを、かつての同志である被告と、かつて被告の政治運動に関係したFの2名のもとにも届くよう、すでに解体していた「自由民権運動・ラジカル九州」の元メンバーで、一連の過程で原告に同情的で被告と距離を置くようになったMを介して手配した。なお、 このビラに関してまもなく、この頃、被告が頻繁に出入りするようになっていた「舞踏青龍会」の主宰者・H’から、作品としての完成度の低さを指摘され、被告もこの指摘を認めて配布を中止した ため、実際に配布した期間は数日間、これを受け取った者も10人以下である。
また原告は、かつて「自由民権運動・ラジカル九州」のメンバーとして実名で活動し、その 機関誌 やホームページ などですでに実名とともに顔写真も公表されていたものであり、このビラに関して、原告は被告への抗議などを一切おこなっていない。
9.被告は、原告との共通の複数の友人から、Fが「被告によるストーカー行為の被害に遭っている」と主張しているがそれは事実かとの問い合わせを受けたが、そのような事実は存在しないため、これを否定した。この件について、被告は Fを名誉棄損の容疑で刑事告訴する準備 を進めているところである。
また12月6日、「若い女性を次々と部屋に連れ込んでは麻薬をやらせているとの情報が入った」として、2名の私服刑事が被告アパートを訪れた。そのような事実はないため、被告は釈明して事なきを得たが、刑事たちはその情報の出所を被告に告げなかった。被告がこのような嫌疑をかけられる根拠となり得る唯一の出来事は、前記した、7月8日に原告に対して精神安定剤の服用を求めたことのみであり、このことからこの悪質な情報の出所は、原告あるいは原告周辺以外にないと考えられる。
12月末、Fは「外山恒一被害者の会・代表」を自称して被告を誹謗中傷する手紙を被告のもとへ書き送った 。
これらは、Fによると推測するのが妥当な被告宅への頻繁な無言電話、明らかにFによるものである被告の実家への脅迫電話などがまだ続いている時期でもあり、被告は再び精神的苦痛を強く感じ始めるに至り、翌2000年1月17日から、精神科への通院を再開せざるを得なかった。
10.2000年3月19日、原告は傷害、Fは「ストーカー行為」について被害届を出したが、これに関しても被告は、 Fを誣告罪の容疑で刑事告訴する準備 を進めているところである。また傷害罪で被告が起訴された刑事裁判においても、被告は検察側と全面的に争う姿勢で臨んでいる。
11. 3月18日、被告は前記・山の手を、その東京の活動事務所に赴いて襲撃 した。これはその約1年前、被告が原告を殴打した直後に、原告の相談を受けた山の手が、その活動仲間である矢部史郎(ペンネーム)とともに福岡を訪れて、被告を除く「自由民権運動・ラジカル九州」のメンバーや関係者を一同に集め、被告に対する“欠席裁判”を敢行、これが「自由民権運動・ラジカル九州」およびその周辺の諸運動における人間的信頼関係が解体し、ひいては福岡において被告がそれまで数年をかけて構築してきた総勢百名近くを擁する政治運動崩壊の決定的契機となったことに対する報復であった。“欠席裁判”の後、山の手・矢部は被告をファミリー・レストランへ呼び出し、あらゆる政治活動からの“引退”を数時間にわたって迫ったが、被告はとうていこの要求を受け入れることはできず、話し合いは決裂した。山の手は被告の6年来の、矢部は10年来の活動仲間であったが、その親密な関係を終焉させたきっかけを作ったこと、また、 これが主要なきっかけとなって被告のアルコール依存が深まったことなどに責任を認め、これを反省する言動を、原告は当時くりかえした 。しかし、山の手・矢部は、前記ファミレスでの被告との会談において、原告をその意思と無関係に自らの政治目的のために利用することを公然と表明し、その言葉どおり、原告との関係が途絶えた後も、 『情況』 『現代思想』 などの商業誌で原告と被告の双方を侮辱する内容を含む論文を発表した。また、被告の友人である大石規雄は、むしろ山の手・矢部に近い立場に身を置きながら、ファミレス会談に同席しなかった原告の当事者意識の欠如を批判しているが、被告もこの批判に同意するものである。
襲撃後まもなく、被告は「なぜ山の手緑をテロったか」と題して、 前記18日の襲撃事件に関する釈明の文章 を書き上げた。当然、襲撃に至る経緯を説明するにあたって、95年から2000年にかけて自らが深く関与した「自由民権運動・ラジカル九州」をはじめとするいくつかの政治運動経験について触れないわけにはいかず、結果としてこの文章は、90年代後半の被告の政治経験全体を回想し総括する内容となった。3月23日、被告はこれをミニコミ誌として編集・発行、被告の交友範囲に配布し、また東京のミニコミ誌専門書店に取扱を依頼すると同時に、被告のホームページにおいてもこれをそのまま掲載した。
また、 被告が自身やこれに深い関係のある周囲の人物のプライバシーをかなりの範囲まで公開しながら政治活動をおこなってきたこと は、原告はもとより周知の事実であり、原告がそれと知りながら被告との交際を2年近くにわたって続けてきたことは疑えない。さらに当該の文章は、原告側から先になされたプライバシー公開によってすでに運動内部の者には一定広まっていた「噂」が、被告の活動に悪い影響を及ぼしていた状況を覆すために、いわば自己防衛として書かれた側面も否定しがたい。しかも、実名を掲載されたことに対して原告から被告への抗議は一切なさなかったことからも、実名を避ける必要を、被告はまったく感じなかったものである。また、このような文章の発表は、一連の経緯や事実関係を改めて整理してみせることで、独善的な被害者意識から、混乱し記憶を歪曲化する傾向のある原告が、もう一度冷静になって内省・考察を深めるという「協定書」第14項を遵守するきっかけともし得るものである。
4月半ば、被告のホームページ内に開設した掲示版に、主に「『2000年安保』見つめ隊」なるハンドルネームで、原告と被告の双方を中傷する内容の書き込みが頻発しはじめた 。被告のホームページの管理者は前記・Cであり、被告はCに対してこの書き込みの即時削除を求めたが、「悪質な書き込みを片っ端から削除するよりも、他の書き込み者からこの悪質な書き込みへの非難が集中することによって、悪質な書き込みを反省させる方がよい」というCの管理者としての判断によってそのまま放置された。「『2000年安保』見つめ隊」および同一人物と推測される複数の別ハンドルネームによる書き込みはその後も頻繁におこなわれ、時を経るにつれて、その内容も、単なる人格攻撃から、目をそむけたくなるほどの卑猥なものへと変質していった。また5月、もともと掲示板の設置に意欲的ではなかった被告からの再三の求めによって、Cは被告のホームページ内の掲示板そのものを停止し、削除したが、その直後に、 同一人物によると思われる同様の悪質な書き込みが、被告の複数の友人が開設するホームページ内の掲示板にもおこなわれ始めた 。被告は それらを発見するたびに、それぞれのホームページの管理者にその削除を求め、管理者たちは例外なくこれに応じたが、被告はこうした対応のために時間的・精神的に多大な損害を受けた 。こうした事態は現在も継続中であり、最近では、被告の実名をハンドルネームとするなどその悪質さは卑劣を極めており、 これらの件に関して、被告は、名誉毀損の容疑で、被疑者不明のまま刑事告訴する準備を進めている 。
12. 被告は、朝日新聞社の発行する雑誌『AERA』のいわゆる「ストーカー」問題特集内のインタビュー記事に実名で登場し、自らの体験を告白した 。記事作成にあたっての電話取材に際し、被告はとくに原告に対する被告の一連の行為について主に語ったものではなく、現在「ストーカー」などと否定的に規定される傾向のある、恋愛の局面において起こりがちな諸々のトラブルについて、被告自身の体験や考えを取材者に問われるままに答えたものである。それは例えば、被告がいわゆる「ストーカー」の「加害者」になった複数の例や、逆に「被害者」になった複数の例、また、「ストーカー」なる便利な用語が一般に浸透したことによって起きているさまざまの弊害、さらにいわゆる「ストーカー規制法」の問題点など、多岐にわたる内容であったが、それらを最終的にどのような記事にまとめるかについての判断や責任は当然、記事の執筆者あるいは『AERA』に属する。
訴状は、被告が原告の実名をも掲載させようと画策したかのように述べているが、被告は取材に際し、被告の実名を掲載するのは構わないが、原告の実名を掲載するかどうかは被告が判断する問題ではなく、原告に許可を求めるなどして『AERA』側で判断すべき旨を述べている。
『AERA』7月17号に上記記事に対する謝罪文が掲載されたことは、訴状によって初めて被告の知るところとなったもので、取材の当事者に何のことわりもなくこのような謝罪をする『AERA』の姿勢は非礼きわまりない。
また、自ら「ストーカー」呼ばわりされることをあえて受け入れ、「ストーカー」バッシングの風潮に異議を唱えることは、被告の思想信条に基づく純然たる言論活動であって、誰からも非難される筋合いのものではない。また、前記ビラやミニコミの際と同様、この『AERA』記事についても、原告は被告への抗議等を一切おこなっていない。
13.被告は5月23日と29日、2度にわたって中央警察署からの任意出頭要請に応じ、傷害の容疑で取り調べを受けたが、拘留はされていない。また取り調べに際しては、重要であるはずの傷害の動機については充分な釈明の機会を与えられず、むしろ本件ではないいわゆる「ストーカー行為」に関して主に詮索されるという不当なものであった。その際、Fから「ストーカー行為」に関する被害届が提出されていることは告げられず、そのような事実は、訴状によって初めて被告の知るところとなったものである。
警察は5月23日、身元引受人として出頭した被告の母親に、ネット上で頻発した前記の悪質な書き込みを提示し、コンピュータに無知であることにつけ込んで、これらが被告によるものであると匂わせ、誤解させるという、極めて悪質ないやがらせを被告に対しておこなった 。
またそのような取り調べの様相は、原告の主たる目的が、傷害罪による被告の告発ではなく、ミニコミの発行や『AERA』への登場など、被告の言論活動の封殺であることを強くうかがわせるものである。この推測が妥当であることは、原告が「傷害罪」で被告を告訴したのが、実際の事件から1年以上を経て後の、当該の『AERA』が発売された直後であることからも裏付けられる。
14.被告は、原告との間にトラブルが発生した交際中の99年初頭から、一貫して当事者同士の話し合いによる事態の解決を求めており、それを頑なに拒絶し、それどころか無関係な第三者に対し「相談」にかこつけたプライバシーの暴露と被告への誹謗中傷を繰り返し、自らは安全圏に身をおいたままそれら第三者の口から被告をくりかえし糾弾させ、またその内容も新しい交際相手であるFの虚偽の申告や、被告の責任の範疇外であるマスメディアの報道までをも根拠とした不当なものを含むもので、それをあろうことかすでに被告と別れて2年近くも経過した現在まで継続するという原告の態度は悪質極まりない。
また、被告が原告と別れた99年5月から7月27日までの約3ケ月間におこなった一連の行為が、いわゆる「ストーカー規制法」の定めるいわゆる「ストーカー行為」である可能性そのものは、被告も否定しないが、しかしそれらはいわゆる「ストーカー規制法」の施行されるはるか以前のものであり、それらに同法の目的・精神を拡大して運用を図ろうとする原告の意図は、法律運用の原理原則をあえて無視した不当なものである。7月27日以降に被告がおこなったとして訴状で挙げられている一連の行為は、被告の政治的目的にもとづくものであり、「特定の者に対する恋愛感情その他の好意の感情又はそれが満たされなかったことに対する怨恨の感情を充足する目的」にもとづいたものではないから、いわゆる「ストーカー規制法」に定められたいわゆる「ストーカー行為」には当たらない。これを「ストーカー行為そのもの」と決めつける原告の意図は、「ストーカー」概念を無制限に拡大し、いわゆる「ストーカー規制法」の拡大解釈による濫用を招きかねない危険なものであり、これはまさにいわゆる「ストーカー規制法」の成立によって起こりかねない極めて憂うべき事態のひとつとして被告が想定し、危惧していたものである。
第3.損害
1.被告は原告に対して、トラブルを当事者間の話し合いによって解決することを求め続けただけであり、それを時に受け入れ、時に拒否するという、行動原則の首尾一貫性を欠いた気まぐれな対応によって被告を困惑させ、事態の悪化を招き続けたのは原告である。トラブルは、99年8月の、被告による、当事者間での話し合いによる解決という可能性の断念によって実質的に収束し、それ以前の被告の行為は「つきまとい」などと呼べる内容ではなく、またそれ以後の経緯において原告の主張する「つきまとい」は原告の虚偽または被害妄想、もしくは誤解に基づく事実無根の内容である。
原告の1度目の引っ越しは、原告自身の自発的意思によるものであり、またその 転居先住所も、原告の自発的意思によって被告に伝えられた ものである。2度目の引っ越しは、そもそも必要がなかった。必要のない引っ越しがおこなわれたのは、前記のとおり、原や宮沢を介した、 原告とのこれ以上の話し合いを断念する旨の内容を含む被告からの文書による意思通告 が、それを読むことすら拒絶するという原告の不誠実な対応ゆえに果たせなかったことに由来するのであって、被告の責任ではない。
また2000年5月23日、被告は、つい、原告の現住所を知ってしまったが、にもかかわらず以後、現在に至るまで、被告は原告の現住所を訪ねたり、手紙など何らかの手段によって連絡を取ろうとしたこともない。むしろやむを得ずその付近を訪れたり通過しなければならなくなった際に、偶然に出くわさぬよう気を遣って、緊張を覚えるほどである。よって原告の現住所への住民登録には何の支障もない。
2.Fの主張はすべて虚偽もしくは被害妄想であり、場合によっては被告に対する名誉毀損罪、誣告罪にあたる悪意にみちたものである。
またFの精神科への通院は、もともとである。
3.原告は、被告との交際当時から、そもそも「正規の職」についたことがない。
4. 原告は、そもそもかつて被告と共に政治団体「自由民権運動・ラジカル九州」に属する公然活動家である などし、また被告と別れて以後も、さまざまの政治団体の活動にたずさわる政治活動家である。政治活動は本質的に公的な活動であり、実名を挙げてその行動や思想が批判される可能性は、それにたずさわる前提として覚悟しておくべきである。
5.負傷の治療費については、1999年6月17日の 「協定書」 調印において、その請求の意思をあえてそこに盛り込もうとしなかったことから、請求の意思なしとしたまま、事実上の示談が成立しているものである。
また、窓ガラスの入れ替え費用については、これまで述べたとおり、当事者間で話し合って解決する機会はいくらでも存在したのであり、原告が一貫して話し合いを拒否してきた以上、そもそも被告に対してその負担を求める意思はなかったものと判断される。
被告と原告の間に発生したトラブルについて悩み、精神的不安に陥って病院へ通い始めたのは被告も同様であり、双方が自分の責任において負担するのは当然である。原告がこの治療費を被告に請求する権利があるなら、被告も同様に原告に対してその治療費を請求する権利がある。被告は、「悩む時にはとことん悩み、自力で回復すべきである」と考え、2000年7月10日を最後に、精神科への通院をやめて、自ら覚悟したように、意気消沈して精神不安にさいなまれる日々を半年あまりにわたって耐えたが、今回訴訟となったことによって闘争心をかき立てられ、気力を回復しすぎたあまり不眠気味となって生活リズムを崩し、2001年2月28日、刑事裁判初日に遅刻してしまうなど、裁判闘争遂行に困難をきたし始めたため、3月5日より、睡眠薬を処方してもらうために通院を始めたが、これも見方によっては原告の責任と云えなくもない。
原告の引っ越しは、前記のとおり、被告の責任ではない。
6.成人し、自立した男女の合意に基づく交際の過程で起きる不和、ひいては破局にともなう諸々のトラブルについて、どちらか一方にのみ精神的苦痛の責任があるなどということは考えられない。男性の側にのみ一方的な責任があるとする原告の訴状は、女性を「弱い者、守られるべき者」とする女性差別的な社会風潮に迎合しそれを助長する差別文書であり、男女対等な人間関係および社会の実現を追求する被告は自らの思想信条に照らしてとうていこれを受け容れられない。よって一切の賠償請求はこれを拒否する。
紛争解決の方法
原告は、その一貫した主体性のなさ、自立心の欠如、他人への依存癖などから、前記した山の手・矢部の介入の経緯に見られるように、しばしば独自の政治的意図をもって被告の言論や行動を封殺せんとする勢力にまんまと利用されてしまう傾向が見られる。その結果招来したさまざまの事態によって、被告が受けた精神的苦痛は計り知れないが、被告はその補償を原告に対して求める意思はない。
また、今回の公判において原告代理人を務めるH は、被告がかつて 学校問題の集会の場など でことごとく敵対したB 弁護士と、長年にわたり行動を共にしており、政治的対立者として、もともと互いに面識のある人物である。
原告が、このようにみじめな政治の道具とされるに至るきっかけを作ったのは、 そもそも単なる演劇少女にすぎなかった原告 を、互いを政治的に利用しあうことによって生じるある種の危険や、その言動ひいては生活全体の公開性を不可避的にともなう政治運動の世界に引き入れた被告であり、この一点において、被告は原告に対して真摯に謝罪するものである。
被告に対する一切の不当な請求を取り下げ、同時に、強靱な自我を持ち得ぬ者が時に政治の道具として利用されたりすることも往々にして起こりがちな一切の政治運動から身を退けて、平凡な一市民として更生の努力をすることが、もっとも原告の利益にかなうものと考える。
被告は、本意であるか不本意であるかはともかく、累計4年以上の長きにわたって原告と深く関係せざるを得ない境遇に身を置き、原告の長所・短所ともに他の何者よりももっとも深く理解し得るに至ったものと自負する。原告がもしも承知するならば、被告は今後、もはや「同志」としてではなく、一人の「よき友人」、「元恋人」として、愛と誠意をもって原告の更生を個人的に支えることにやぶさかではない。また、原告があくまでもその不当な要求を押し通そうとするならば、原告の過ちを指摘し、原告の更生のきっかけとするためにも、被告はやはり愛と誠意をもって、徹底的かつ全面的に、法廷においてこれと争う決意である。