……ところで私の獄中転向について、以下、少し書き添えておきます。
『最低ですかーっ!』や永江朗氏の新著掲載のプロフィールでも明らかにされているとおり、現在の私ははっきりとファシストです。
私見ではファシズムとは左翼思想とはもちろんのこと、右翼思想(ナショナリズム)ともまったく別のものです。ふつう左翼思想に分類されているアナキズムとは表裏の関係というか、ほとんど同じものです。『最低ですかーっ!』巻末論文に書いたとおり、ある立場Xが、左翼と連帯関係にある時にはアナキズムと呼ばれ、右翼と連帯関係にある時にはファシズムと呼ばれるという、そんなような図式を私は発見しました。
でまあ、私は今後、左翼と国家権力とを同時に敵とみなし、右翼と連帯してこれに対峙するというファシズムの立場を選択したわけです。
呉智英氏がアメリカニズムについて、「(フランス革命を起点として)西回りの共産主義」と定義していますが、私もここ数年来、ほとんどそれと同じことを考えていました。
そもそもマルクスは資本主義の後に来るべき共産主義社会のイメージについて、それほど明確なものは提示していないし、少なくともかつての東側の体制のようなものを想定していたわけではないことは明らかです。だから共産主義という言葉を聞いて、かつての東側のような社会システムをイメージするのは、もはやトンチンカンなことだと思います。共産主義の本命は、実はアメリカニズムなのではないでしょうか。
資本主義が発展すればするほど、内部的な危機が高まり、まったく新しい社会システムを創出する他ないところまで追い込まれてしまう。そのまったく新しい社会システムのことを、本来は「共産主義」と呼ぶわけです。
資本主義は、伝統的な共同体を解体し、その社会の成員を、バラバラの個人に還元していきます。人間はそもそも、ただ生まれて死ぬだけの存在で、そこに意味などありません。しかし同時に、意味なしで人間は生きることもできません。岸田秀の云うように「人間は本能の壊れた動物」ですから、本能の代わりに観念的な物語を社会的にインプットされることで、その欠陥を補ってきました。そのインプット作業を担っていたのが伝統的な共同体ですから、これが資本主義の発展によって破壊されてしまうと、人間の生から意味や目的が失われてしまい、さまざまの不都合が生じます。全体から見れば少数派ではあるが無視できない程度の割合で、「意味や目的のない生」に耐えられない者が発生して、他者に重大な危害を及ぼすような暴発を繰り返すようになります。これが、資本主義が発展すればするほど必然的に高まる、内的な危機だというのが私の見解です。
この危機に対して、共同体を再建すべしというのは正しいですが、資本主義の原理には反しますから、「歴史の必然的発展」はそっちの方向には進みません。共同体の再建ではなしに、安全や秩序を回復する方策が求められます。要するに、諸個人が人生に意味や目的を求めず、ただ刹那的な欲望のままに反射・反応の世界に生きること(東浩紀などの云う「動物化」)を肯定、むしろさらに推進する路線の延長上で、しかし人間の動物としての不完全性ゆえに必然的に発生する、暴発する危険分子を、他に壊滅的な打撃を与えない初期の段階で速やかに発見・除去するための環境的なシステムが、資本主義発展の必然的産物でもあるハイテクを駆使して構築されていきます。このハイテク監視システムは、民主主義と矛盾するものではありません。むしろ、資本主義によってバラバラにされた個人をまとめる原理が民主主義に他なりませんし、資本主義が発展すればするほど、民主主義もまた発展します。民主主義の発展形が、近年アメリカで猛威をふるっている、PC(政治的正しさ)やアファーマティブ・アクション(積極的差別是正政策)であり、現在構築中のハイテク監視システムは、これらと矛盾するものではなく、むしろ大いに合致するものとなります。要するに男女共同参画社会やバリアフリー、リサイクル社会や犯罪被害者の救済――こういうPC政策と矛盾しない形でハイテク監視社会化は推進され、むしろPC政策に抵触する存在こそが、監視・摘発の重点的な対象になるわけです。
PCはもちろん、左翼の正義です。左翼的正義と国家権力が結合したものをスターリニズムと呼ぶならば、資本主義の必然的な危機を克服するため現在構築されつつあるまったく新しい社会環境システムは、字義どおりのスターリニズムだし、資本主義発展の必然的帰結として登場するという、本来の意味での共産主義なのです。これを全世界に押しつけようというブッシュの戦争は、だから共産主義革命戦争だということになります(ブッシュにその自覚はないでしょうが)。ですから、PC的な正義の観念をブッシュと共有する左翼に、現在進行中の「永久戦争」に本質的な抵抗をおこなうことは原理的に不可能です。
資本主義の必然的危機に対して、PC的ハイテク監視社会の構築という方向ではない解決策は、伝統的共同体の再建以外にはありません。
伝統的価値を、何か自明のものとして称揚するのが右翼思想ですが、ファシズムは、あくまでもPC的ハイテク監視社会を阻止するためのやむを得ざる唯一の方策としてこれを選択します。ファシズムは、資本主義そして民主主義の必然的発展に、少数派による自由のための団結をもって対峙する思想です。資本主義や民主主義の発展を必然化するのが人間の欲望だとすれば、これを阻止し得るのは自由を手放すまいという人間の意志だけです。「意志の勝利」というナチスのスローガンはこうしたファシズムの原理に照らして妥当です。
私はファシストとして、「伝統的共同体の再建」という課題を、右翼と共有しています。
天皇制に関しても、私は現在、おおむね支持しています。正確には、「あった方がいいが、なくてもいい」ぐらいの立場です。転向前は、「ない方がいいが、あってもいい」ぐらいに考えていました。天皇制は、日本の歴史全体を物語化する装置として非常にすぐれていると私は思います。歴史なんてものはどうせ物語であって、そういう大きな物語を共有することが共同体の本質だし、またその共同体が諸個人の生に意味や目的をもたらすわけですから、天皇制はあった方がいいと私は考えるようになりました。また、歴代天皇の名前などは、九九と同じように義務教育で重点的に扱うべきだと思い、私自身、率先して獄中でまずは全部覚えてしまいました。
ちなみに女性天皇について私は否定的です。一時的な、男系の女性天皇はあってもいいですが、女系の天皇など許されません。理由は、ただ「これまでそうだったから」というだけです。理不尽ではありますが、天皇制はそもそも理不尽なシステムです。それに、前近代的なシステムである天皇制を、近代的な民主主義イデオロギーで改変すべきではありません。男女平等などと云うなら、そもそも平等の理念に反する天皇制自体をなくすべきです。私が思うに、天皇制というのは、「これまでそうだったし、これからもずっとそうである」という論理が核心であって、少なくとも前例に基づいてそれを維持できる以上は、前例に基づかなければなりません。要するに、現在の天皇の血統が途絶えてしまったら、古代にあったように、以前の天皇の5世孫でも10世孫でも探し出して、継いでもらえばいいだけです。もっとも、皇室ともあろうものが、庶民の一夫一婦制に律義に迎合しているからこういう問題が出てくるわけですが。
天皇制以外でも、ジェンダーフリーだのゆとり教育だのは粉砕すべしという点は右翼と共有していますし、またいわゆる自虐史観(私はそれを「自虐史観」とは呼びませんが)を克服すべしというのもまったくそのとおりだと思うし、日本国憲法を廃棄して自前の軍備を増強すべしとも私は思っています。だから、現時点での私は大いに右翼と共闘できると思います。願わくば、軍人は尊敬すべきだが警察は敵であるということや、犯罪者の大部分は社会政策失敗の犠牲者であり、厳罰化などナンセンスで、むしろ人心の荒廃を招く監視社会や、地方の「ファスト風土化」(by三浦展『ファスト風土化する日本』洋泉社新書)を阻止することが犯罪防止のためには重要であり、またそのことは伝統的共同体の再建にもつながるというあたりの認識が、右翼の間に広く流通するようになればいいのですが。あと、奇形的な共産主義体制がほぼ消え去り、本当の共産主義革命が進行している現在こそ、「反共」は重要なのだということも、右翼にはよく認識してほしいと思ってます。
しかしもはや右翼を自称してはいないSさんにこういうこと書いても仕方ないですね。今こそ右翼が頑張らなければいけない時代なのに、残念至極です。私がSさんを念頭に「がんばれ!新右翼」でも書くべきなんでしょうか。それともSさんも、ファシズムに宗旨変えします? まあそれは冗談ですが、私としては、ともかく九州をファシズムの牙城とし、ゆくゆくはこのまま腐っていく他ない民主主義日本から分離独立してファシスト革命政権の樹立を宣言する方向で今後頑張っていくつもりです。ちなみに現在、私はスキンヘッドです。
これまた半ば冗談ですが、周辺諸国に気兼ねしてか、日本の紙幣の肖像はどんどん維新革命家の類を避けて、文化人路線に移行しています。このまま行けば少なくともいずれ必ず手塚治虫が万札でしょうし、下手するとドラえもんとかピカチュウとかが紙幣の顔になって、もはや子ども銀行です。そういう、日本の女々しい貨幣政策への当てつけも兼ねて、九州ファシスト政権は断固として西郷を万札にする、とかまあアホな妄想にふけってはニヤニヤする毎日です。私の九州独立構想には沖縄は含まれていませんし、すると竹島も尖閣諸島も北方領土も無関係ですから気が楽です。佐世保の米軍をどうやって追い出すかだけですね。……