今こそ共産主義を警戒せよ


 人間を動物化するのは資本主義の宿命である。
 資本主義は人間の欲望を全面的に開花させ、伝統的な共同体を破壊してそれを単なる個体の群れへと変質させる。
 これは社会を形成しなければ存在できない欠陥動物である人間を、根本的な危機に直面させる。
 そのため資本主義はその危機の極点で、完全に動物化した人間の群れに秩序をもたらすための、まったく新しいシステムを自ら招き寄せる。
 それが要するに共産主義であり、我々はマルクスの理論を全面的に正しいものとして承認する。
 共産主義は、過ぎ去った前世紀の問題ではない。ソビエトをはじめとする旧東側の体制は、共産主義の一種ではあるが、マルクスの想定していたそれとはまったく別のものである。マルクスのいう共産主義は、資本主義がとことんまで発展した末に実現される。共産主義が暗く禁欲的なシステムであるというイメージを抱いている者は、認識を根本的に改めなければならない。人間の欲望が全面的に肯定される、のっぺりと明るい本当の共産主義体制は、今こそ現前しつつある。
 資本主義体制は、必然的に共産主義体制へと移行する。
 我々がマルクス主義者と異なるのは、これを「ゆゆしきこと」として否定的に価値づけ、なんとしてでも阻止しようという意志においてである。
 資本主義の発達を進行させ共産主義を招き寄せる人間の欲望の力に打ち勝てるものは、ただ人間の意志の力のみである。その意味で、我々の先達が掲げた「意志の勝利」というスローガンは、理にかなっている。
 我々の意志の力で、共産主義化を阻止してみせようではないか。

 現在が戦時下であるということの意味を正しく認識しているのは現在、我々ファシストのみである。これは独善的に主張するのではなく単に客観的事実であって、我々としてはこれは嘆かわしいことだと感じている。アフガンやイラクにおける対米協力に反対する我が国のいわゆる「反戦派」の一部も、現在は戦時下であるとの認識を表明してはいるが、その意味するところは、我々のものとはまったく違う。
 『最低ですかーっ!』巻末2論文(以下「2論文」)において明らかにしたように、今回の戦争はアメリカのものであれ日本のものであれ相互に関連した世界規模の内戦であり、軍事力の拡大ではなく警察力の拡大が戦時体制の根幹をなしている。軍隊ですらまるで警察のようにふるまっているのであり、その結果、古典的な戦争であれば本質的には対等な政治指導者であるはずのオマルやフセインは単に犯罪者扱いされている。我が国でも真の意味で「反戦」的な課題とはストーカーやDV男や少年犯罪者や児童虐待や前科者やカルト教団や飲酒ドライバーや路上喫煙者やゴミ分別メンドくさがり屋やその他の危険分子に対する監視や刑罰の強化、つまりさまざまの刑事法改「正」やハイテク防犯装置のバラまき、自警団的取り組みの拡がりやマスコミのヒステリックな犯罪者叩きなどにどう対抗するかということであって、端的に云って日本軍(「自衛隊」)の海外派遣などの問題は、現在おこなわれている戦争とは直接には関係がない。
 既成の戦争イメージに呪縛され、アフガンやイラクの問題に目をうばわれているいわゆる「反戦派」の存在は我々にとってむしろ有害ですらある(もっとも我々は最初から「左翼は敵である」という認識を明らかにしているのだから彼らが我々にとって有害なのは当然ではある)。
 情勢認識としては「反戦派」よりもブッシュのそれの方がよっぽど正しい。つまり今回の戦争がアメリカや日本にとって「テロとの戦い」であり「永久戦争」であるという認識である。彼らは「ビンラディン的なもの」や「オウム的なもの」をこの世界から一掃することを目指しており、その対立は絶対的なものであって、どちらか一方が他方を完全に絶滅するまで、戦争は永遠に終わらない。もちろん、「ビンラディン的」「オウム的」勢力がどこかで政権を樹立するに至り、核武装まで実現した場合には、対立が膠着状態に陥って、新たな冷戦構造が形成される形で表面的な武力衝突がストップすることはあり得る。しかしそれは本当の意味での戦争終結とは呼べないだろう。
 今回の戦争は、一方が他方を絶滅する完全な勝利か、新たな冷戦構造の形成か、そのいずれかの結果が出るまではこのままずっと続く他ないのである。「反戦派」はこの冷厳な事実を理解しないか、あるいは見て見ぬふりを決め込むことでかろうじて延命しているが、それだけならまだ害はない。現実には「反戦派」は、2論文で明らかにしたように、自らフェミニストとしてエコロジストとして嫌煙権論者として反サベツ主義者として稀に共産主義者として総じてつまり民主主義者として、警察力の拡大という戦争政策を助長、どころか無自覚に積極推進、場合によっては政府を牽引してさえいることがほとんどなのである。

 スターリニストの顕著な特徴は、自らがスターリニストであることにまったく無自覚なことだ。スターリニズムを掲げるスターリニストを探すことは極めて困難であるし(この点、ファシスト呼ばわりされているのがたいてい単なる右翼であってファシストではないこととは対照的だ)、そればかりか、スターリニズムを批判しないスターリニストなど皆無であると云ってよい。しかしそれでも彼らはスターリニストなのだ(分かりやすすぎる例にすぎないが日共や新左翼諸党派を見よ)。
 我々はすでに、スターリニズムに唯一有効に抵抗し得る立場はファシズム以外にないことに思い至っており、だから我々ファシストだけはスターリニズムを批判するがスターリニストではない。
 2論文で明らかにしたとおり、スターリニズムとは左翼的な正義と国家権力とが結びついた体制であり、今回の戦争はその実現を(無自覚に)目指している。左翼勢力と現政権とは、いずれもスターリニズムの推進者である。これに抵抗するものとして我々ファシストの他に右翼勢力(ナショナリスト)があるが、本題ではないのでここでは言及にとどめよう。
 我が国の現政権が敵とみなしている「オウム的なもの」とは、もちろんオウム教団それ自体のみを指すのではない。人間の動物化という現象を肯定的に評価した上でそれに対応するシステムの構築を要するに目指しているスターリニストたちにとって、人間の動物化を否定的に評価して異質な問題解決のビジョンに基づいて運動している我々ファシストももちろん「オウム的」な敵である。
 今回の戦争は最終的な決着がつくまで永遠に続くのだという先の認識を変奏すれば、その場合の「最終的な決着」とは全世界がスターリニズムで覆いつくされるか、逆にファシズムで覆いつくされるかということである。この二極対立においては、かつての冷戦下のような「第三の道」の選択はあり得ない。全世界全人民が、スターリニズムとファシズムの陣営にまっぷたつに分かれ、相争うことになる。反戦運動は不可能だ。すべての者が、どちらの陣営につくのかという選択を迫られる(現実には、むしろこのままスターリニズムの側にあり続けるのか、それとも離脱して我がファシズム陣営に加わるのかという選択になる)。
 いや、今にして思えば、かつて冷戦下で存在したように見えた「第三の道」の選択など、もともと不可能だったのだ。共産主義(要するにスターリニズムだ)は本来、資本主義の先端で到来するものであり、実はアメリカニズムこそはスターリニズムの本命だったのである。冷戦構造とは突然変異的スターリニズム(東側)と本来のスターリニズム(西側)との対立構造であり、その外部を目指した「第三の道」もファシズムに転化する可能性をあらかじめ自らに禁じたアナキズムであり、要するにスターリニズムの補完物でしかあり得なかった。ヨーロッパのあるファシストの定義した「ナショナリズムを超えてアメリカニズム(本来マルクスが想定していた資本主義の発展形態)とボルシェヴィズム(マルクス理論のレーニン的解釈)双方に対するヨーロッパ(日本と置き換えてもよい)復興運動」たるファシズムは、冷戦構造の成立以前に壊滅的打撃を受けていた。
 しかしそれは単にイタリア・ドイツが(戦前日本はファシズムではない)戦争に負けた結果であって、決してファシズムが思想的に破産した結果ではない。
 スターリニズムの実現を阻止せんとする我々は、今こそその唯一の現実的アンチテーゼであるファシズムの運動を再建しなければならない。

 弁証法という論理構造がある。
 「正-反-合」というやつである。
 対立する2つの立場があって(「正」と「反」)、互いに抗争を繰り返した末に、より高次の段階で双方を包摂した新しい立場(「合」)が生成される。

 ブッシュ(や小泉)と左翼がモメている。
 我々ファシストは、これをしょせん弁証法的な「正」と「反」の対立にすぎないではないかと見ているわけである。

 最近、左翼が喜んで参照しているネグリ&ハートの『帝国』という「21世紀の『共産党宣言』」がある。
 アメリカという「帝国」と、それに対抗する「マルチチュード」の形成について分析した本だ(ということだ)が、「帝国」と「マルチチュード」とは、資本主義や民主主義が一定の水準にまで高度化すれば同時に形成されてくる双子のようなもので、しょせんはやがて「高次の段階で統一」される「弁証法的対立」であるようにしか我々には思えない。
 アフガンやイラクでブッシュのやっていることがけしからんと云うなら、じゃあ左翼はそれらをタリバンやフセインの支配に任せておけばよかったとでも云うのか。
 左翼は絶対にそうは云えない。
 結局、左翼は武力ではなく「説得によって」タリバンやフセインに圧政をやめさせるべきだったと云いたいだけだ(しかもあくまでも過去形で。その証拠に、左翼は例えばフセインを元の大統領職に戻せとは絶対に云わない)。最終的に望む状態は、左翼もブッシュもまったく同じで、しょせん武力を行使するか否かでモメているにすぎない。
 左翼は、結局のところブッシュのやり方が「エレガントでない」と不快感を示しているにすぎない。
 こんな「批判」の延長線上には、「エレガントなブッシュ」しか生まれようがない。
 そして我々ファシストはそのことを、「PC的な左翼の正義と、ハイテクを獲得した国家権力との結合」であり、新たな、真の共産主義社会の実現であるととらえている。
 ブッシュ(「帝国」)と左翼(「マルチチュード」?)との対立は、しょせん弁証法的な対立であって、統合不能な真の対立ではない。
 そして我々ファシストは、共産主義体制の実現へと向かうに決まっているこの弁証法的対立関係の総体に対して闘いを挑んでいる。

 以下蛇足だが、ファシズムの核心の一つは「我々だけがよければいい」であるから、イラクやアフガンの状況がどうであろうと知ったことではない。大変な状況に置かれた人々に同情はするが、それがその国の国内問題であるかぎり、同情以上のことはしない。頑張って自分たちの力でなんとかしてもらいたいと声援を送るだけだ。我々日本の(あるいは九州の)ファシストにとって、とりあえず日本(あるいは九州)だけがよければそれでいいのだ(もっと云えば「ファシストだけがよければいい」のだ)。
 ただし、グローバル資本主義そしてグローバル民主主義はファシストの敵であるから、そうした勢力がイラクやアフガンを浸食していくことには我々は心から反対する。
 つまり、「とりあえずオマルやフセインを元の地位に戻せ」という、本当の意味でのブッシュ批判を口にできるのは、我々ファシストと、あとはナショナリストのみである。「やり方が悪い」と云ってるだけの左翼は要するブッシュの仲間である。