ファシズムとはおおよそこんな思想である

 ファシズムは、極左思想経由の極右思想である。
 現に、ファシズムの始祖・ムソリーニは、もともとイタリア社会党(当時はまだ共産党はない)の極左派であり、その周囲に集まった初期ファシスト党員の大半はアナキスト(と前衛芸術家)であった。
 この程度のことは、常識としておさえておいてもらいたい。

 ファシストは、認識において共産主義者(マルクス主義者)であり、行動において反共主義者である。
 ファシストは、資本主義がその危機の極点において、「必然的に」共産主義へと移行するという、マルクスの分析に全面的に賛成する。これはマルクス主義者が自慢するように「科学的真理」である。
 しかし、水は確かに放っておけば百度で沸騰するが、我々には意志というものがある。我々は意志の力によって、火を止めたり水を追加したりするなどして、沸騰を阻止することができる。
 ファシストは、共産主義を望まない。資本主義は、放っておけば「必然的に」共産主義へと移行するが、ファシストはこれを「放っておく」つもりはない。

 ファシストは、資本主義に反対する。
 共産主義者が資本主義に反対するのは、それが「正しくない」からである。
 ファシストが資本主義に反対するのは、それが「美しくない」からである。
 ファシストは、共産主義者と違って、資本主義を「廃棄(揚棄)」しようとは考えない。共産主義以外の方法によって資本主義を「廃棄」することはできない。ファシストはただ、国家権力によって資本主義を制限する。

 共産主義者は、資本主義が、人間をその「類的本質」から疎外していると考え、その解決策として「階級の廃止」を提示する。
 ファシストは、資本主義が、人間をその「本来性」から「頽落」させると考え、その解決策として諸個人による「死への先駆」を提示する。
 「死への先駆」とは、生の有限性の自覚であり、一回性の自覚であり、ひいては自らが空間的共同性(社会)や時間的共同性(歴史)の中に生きていることの自覚である。
 「歴史の終焉」へと向かう資本主義末期の現在において、共産主義者は、このまま歴史を終わらせようとする(現在は共産主義に至る人類の「前史」と認識される)が、ファシストは歴史を復活させようとする。

 ファシズムは、ニーチェとハイデガーを主要な参照先とする革命思想である。
 もちろんすでに述べたように、マルクスもまた、否定的な参照先とされる。

 ファシストを突き動かす動機は、文学的なものである。
 ファシズムは、実存的な苦しみから生まれる。
 真摯な共産主義者は試行錯誤の果てに実存主義を否定し、また「政治的な文学(芸術)」や「文学的(芸術的)な政治」を否定したが、当然である。それらはファシズムに帰結するからである。
 ファシズムは、文学的(芸術的)な政治運動であり、また政治的な文学(芸術)運動である。

 ファシストは、民主主義に反対する。
 民主主義は、諸個人の自由を、最終的には否定するからである。
 ファシストは、民主主義と自由主義とがそもそもは相いれないとする意見(古くはオルテガやカール・シュミット、最近でも我が国の呉智英や柄谷行人などがよく論じている)に全面的に賛同する。
 ファシストは、自由主義者である。

 ファシストは、大衆を蔑視する。
 現在の監視社会化の急速な進行を見れば明らかなように、大衆こそは自由の敵である。「自由からの逃走」という有名な言葉どおり、大衆は自由を忌避する本性を持っている。
 民主主義とは、大衆が力を持つ体制である。
 ファシストは、民主主義を打倒し、団結した少数の自由主義者による独裁政権の樹立を目指す。この「少数の自由主義者」の結社が要するにファシスト党である。
 ファシズムの社会においては、ファシスト党に結集した自由主義者のみが最大限の自由を享受し、大衆は「パンと見世物」の享受という虚偽の自由で馴致される。

 ファシズムに最も近いのはアナキズムである。
 しかしアナキストは、かつて一度も勝利したことがないし、これからも決して勝利することがない。
 しかも、アナキストがこれまで存在を許されてきたのは、まだ民主主義と自由主義の対立が最終局面に至らない過渡期において、細々とながら頑固な自由主義者が存在しうる余地があったためである。そのような幸福な時代は、すでに終わろうとしている。
 もはやアナキストを筆頭とする頑固な自由主義者たちは、民主主義の一元支配を要求する大衆によって圧殺される運命にある。
 それを拒否するには、ファシストへと自らを進化させる以外にない。
 アナキズムに対し従来からよく「展望がない」という批判があるが、ファシズムは、少なくともこの点をクリアしている(仮にも歴史上何度かは革命に成功した運動である)。
 ファシズムとは、追い詰められたアナキストに残された最後の活路である。

 アナキズムの次にファシズムに近いのは、ナショナリズムである。
 しかしナショナリストも、もはや自らの力だけをもって、グローバル資本主義の猛威に対抗することはできない。
 ナショナリストの抵抗は、感情にのみ依拠しているがゆえに絶望的である。
 ファシストには、革命理論がある。
 ナショナリストにもまた、アナキストと同じようにファシストへと進化するか、アナキストとは違ってナショナリストであるままファシストと手を結ぶ以外に、道は残されていない。
 歴史的にも、まずアナキストなど極左からの転向者によってファシズムの運動は開始され、ナショナリストなど極右からの転向者の合流によってその運動は拡大した。

 ファシストは、ナショナリズムを360度ヒネって肯定する。
 そもそもファシストは、故郷喪失者であり、即自的にアイデンティファイできるナショナリティを持たない(中島みゆきの「異国」をファシスト党の党歌にしてもいいくらいだが、暗すぎるのでそれはやめておく)。
 ファシスト党は、民主主義と戦う戦士の共同体であり、ファシストが全面的にアイデンティファイできるのはファシスト党の共同性に対してのみである。ファシストは、大衆を含めたナショナリティにはアイデンティファイできない。
 しかし、ファシスト党はそのナショナリティにおける独裁的支配を貫徹するために、大衆を馴致・教化しなければならない。馴致のためには先述のとおり「パンと見世物」が利用され、教化のためにはナショナリズムが利用される。
 ファシストは、ファシスト党という空間的共同性や、(左右の)革命運動史という時間的共同性に内在する存在として自己を認識するが、大衆は、国家や民族のそれに内在する存在として自己を認識することが求められる。このようにして、ファシズムの社会では、ファシストであれ大衆であれ、諸個人は何らかの共同性の中に自己を位置づけることができ、「本来性」を回復する。
 よって革命の前衛党たるファシスト党を構成する個々のファシストは、確信犯的に、ナショナリズムを肯定・尊重しなければならない。
 天皇陛下万歳。どうせ害はない。