名誉毀損事件について

名誉毀損事件というのは取り扱いが難しく、たとえば事件の内容を報道すること自体が名誉毀損罪に問われてしまう可能性もある(その可否は別である)が、問題となった文書のおおよその内容を含めてすでに新聞報道もされており、「被害者」の実名さえ出さなければ問題なかろう。
 外山は、01年8月、福岡地裁民事法廷に、このような陳述書を提出した。

陳述書
(これが名誉毀損の対象となった文章なのですが、削除対象となり、保存されているであろうパソコンも警察に押収されている為、現存しませんので、お持ちの方いらっしゃいましたらご連絡ください。)

拘置所の外山氏より同内容が手書きの手紙にて届きましたので、以下、名誉毀損の対象となった問題の「陳述書」を復元致します。原文は実名で表記されていましたが、今回は、全て匿名での公開といたします。

陳述書
(X法律事務所の「歪んだ正義について」)

 原告の法定代理人を担当するHは、X法律事務所に所属する弁護士である。公判中、何度も指摘しているとおり、同法律事務所の所長のB弁護士と私とは、子供の人権をめぐる活動の過程において過去、激しく対立し、互いに政治的な敵として認識し合っており、そのことは、10年以上の長きにわたってBと活動を共にしているHもよく知っているはずのことである。私は、今回、Hが原告の利益を守るためではなく、もともと政治的な敵として認識していた私に社会的制裁を加えることを目的として、原告をそそのかして提起した訴訟であると断定している。本件訴訟と同時進行で進められている刑事裁判においても何度も主張してきたことであるが、B、Hの一派は、歪んだ正義の持ち主であり、その歪んだ正義感に基づいて、「悪者」と決めつけた主に男性に対して、社会的制裁を与えることを主な活動としてきた。そのことを裏付ける新たな情報が得られたので、それについて陳述する。
 情報源は事情により明らかにできないが、Bは、数年前、自分の息子にテレクラをやらせ、男性関係で悩んでいる女性を探し出させて、弁護士としての自分のクライアントを獲得していたという。私は、売春も立派な労働の一つで、一日も早く合法化されるべきだと考えているが、Bらは、売春は女性に対する人権侵害であり、社会悪として根絶すべきだと考えているはずである。そのBが、いわゆる援助交際つまり売春の温床となっているとして批判の強いテレクラを、こっそりと弁護士稼業の依頼者探しに利用したというのは、一体どういう神経だろうか。
 女性の人権、子供の人権と、表向きは耳ざわりのいいゴタクを並べて、裏ではその御立派な御高説と相矛盾する社会への裏切り行為を続けていた。
 X法律事務所は、かくも歪んだ正義の弁護士グループなのである。

 「答弁書」にもあるように、外山はこの裁判の背景には、外山と敵対する福岡の左翼市民運動の、外山の活動を潰そうという政治的目的があると一貫して主張しており、この陳述書は、左翼市民運動が、外面上の理想主義に反し、裏ではいかにエゲツないことをやるものか、を示す傍証として提出したものである。
 その数日後、外山はこの陳述書を一連の刑事・民事両裁判をレポートするために開設したホームページにそのまま掲載した。このホームページには、法廷に提出された証拠類が、80種以上の膨大な量となるが、住所等の記載部分と、双方の支援者を含む当事者以外の実名を除いてすべてそのまま掲載されており、この陳述書もその中の一つとして載せられたにすぎない。
 
 またここに記載された情報の出所であるが、二人の当事者(Bとその息子)のうちの一人であるBの息子本人が、バイト先の同僚であった外山の友人に語ったものである。外山の友人は、この事実関係をそのまま認める供述をしており、少なくとも彼が外山にこの話をしたこと自体は立証されている。また、Bの息子は、外山の友人にそのような話をしたことは認めていないが、彼がバイト先の同僚であったこと自体は認める供述をしており、つまり、Bの息子と外山の友人がバイト先の同僚であった事実自体は立証されている。

 この事件での外山の無罪主張は以下のとおり。
 まず、起訴状で名誉毀損容疑の対象となっているのは、陳述書のホームページへの掲載のみであり、民事裁判での陳述の件や、そもそもこの文書が民事裁判での陳述書であること自体にも触れておらず、著しく正確さを欠く。外山がBに対しておこなった批判が仮に名誉毀損であったとしても、ホームページは法廷の客観的報道にすぎないから違法性がなく、法廷での陳述は起訴状で触れられていないので弁明をする必要がそもそもないから、無罪もしくは起訴状の不備により公訴棄却(起訴自体を無効とすること)とすべきである。もちろん、法廷での陳述は名誉毀損にはあたらない(立証に失敗した主張が名誉毀損になるなら裁判が成立しないから、故意に虚偽の陳述をしていない限り罰するべきでない)。
 これに対し裁判所は、外山および弁護人の主張をすべて退け、検察側の求刑どおり懲役1年の実刑判決を云い渡した。
 傷害事件同様、この事件に関しても、当サイトは外山の無罪を主張するものではない(逆に有罪と決めつけることもしない)。
 しかし、この判決の不当性は、傷害事件に対するもの以上に明白である。これはもう、議論の余地がない(などとしては話が終わってしまうから論じるが)。
 第一に名誉毀損事件に実刑判決というのが異常である。第二に、「求刑どおり」というのが疑問の余地がなく異常である。

 名誉毀損事件では、たとえ有罪とされても、ほとんどが罰金刑であり、懲役刑の判決自体がまず滅多にない。過去の例では、右翼が街宣車で一ヶ月以上にわたり「社長はホモだ」などと騒いだ事件、99年の都知事選で「石原の息子はオウム準幹部」とする怪文書の出所が自民党都連幹部だったことが発覚した事件などで懲役刑が言い渡されている。つまりこれくらいの内容や規模の悪質性(前者については、右翼のこのテの街宣はほとんどの場合、実際には恐喝事件だし、後者については、「犯人」の社会的立場に加えて文責を明記しない怪文書として発行していることからその悪意は明らかだ)があってやっと懲役刑なのであり、しかも両事件とも執行猶予つきなのである。外山の場合、刑法の規定上、執行猶予はつけられない(すでに前件で実刑判決を受けているから)という事情はあるが、むしろ逆に、そのような特殊事情をいっさい考慮に入れず「求刑どおり」の判決を宣告しているのが一層不自然なのである(なお、この点、補足が必要だろう。だったら実刑自体はやむを得ないのかと早合点する人もあるかもしれない。しかし第一に、そもそも前件の実刑判決が不当であるから、これが原因で本件も実刑となるのは不当である。第二に、刑法のこの規定は、犯罪傾向の進んだ者に対処する意図なのだから、本件に適用する必要はない。第三に、前記の例と比較して明らかなように本件は仮に有罪であっても罰金刑相当である)。

 議論が遠回りをしたが、この事件でまず問題とすべきは、民事法廷での陳述が名誉毀損にあたるか否かである。これについては、専門家も含めてほとんどの人は、あたらないと判断するだろう(少数意見的例外はあるだろうが)。
 では、民事法廷内でおこなわれた限りで違法性のない(可能性が高い)陳述について、法廷外に報道する(もちろんその陳述が裁判で争う二者の片方の主張にすぎないことは明記した上で)のは、どうか。ここは、判断が分かれると思われる。程度の問題かもしれないが、どの程度まで許されるとするかは、専門家でも意見が分かれるだろう。
 外山は、住所や顔写真はともかく、それ以外は問題ないと考えているようだ。法廷をTVで生中継する国もあること(しかも外山がネオコン、つまりアメリカ的自由主義過激派であること)を考えれば、外山のこの主張もあながち極論とも決めつけられまい。ただ、日本の、特に民事裁判は、公開とは名ばかりで、たとえ傍聴席にいても、証人尋問を除いては、目の前で展開されるのはほとんど書面のやりとりだけで、原告・被告双方が何を主張しているのか、まったくわからないのが普通である(だからこそ外山は、「裁判公開の原則に実質を与える」意味もこめて、法廷に提出されるすべての書類をホームページで公開していたという側面もある)から、裁判所が外山のこうした主張に対して否定的であろうことは想像にかたくない。しかしこれは司法制度や報道の自由をどう考えるかという思想的な問題であって、裁判所が現実の必要からある解釈を公式見解として採用し、有罪・無罪の分岐点とすること自体はやむを得ないとしても、それは本来、相対的な真理にすぎず、外山の見解が絶対に間違っていると決めつけてはならないことは言うまでもない。だから、外山が自分の信念に基づいて無罪を主張することは、正当な思想の自由、言論の自由として擁護され、むしろ犯罪の故意がなかった証拠として有利に解釈されるべきで、「反省の情が認められない」ことの証拠とすることは、明らかに間違っている。

 また、名誉毀損罪と表現の自由という、より一般的な問題もある。
 名誉毀損罪の条文は、「公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず」罰するとなっている(刑法第230条)。どの程度なら「公然」とみなすのかの基準には議論の余地があるが、とりあえず判例では、かなり甘い基準(たとえば数人集まっている室内で話したことでも「公然」性が認められている)が採用されており、法廷内の陳述も、ましていくら実際の閲覧者が少なくてもネット上に掲載すれば、(可否はともかく)「公然と事実を摘示」したことになると判断されるだろう。また、条文にあるとおり、その内容が事実であるか否かは、この場合考慮されず、ホントであれ、ウソであれ、何らかの事実を挙げて他人を批判したら、まず名誉毀損罪は成立する。
 しかしここで当然、表現の自由の問題が出てくる。刑法第230条の2で、「特例」として、名誉毀損ではあっても罰しない条件を定めている。つまり、その内容が「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ることにあったと認められる場合には、事実の真否を判断し、真実であることの証明があったとき」は処罰されない。内容の公共性、目的の公益性、真実性の証明の三点をクリアすればよいのであるが、外山の事件では、ここもややこしい話になる。
 まず、法廷での陳述について。内容の公共性については問題ない。弁護士という公共性の高い職業に就く者に対して、その顧客の獲得方法という、職務内容に深く関連する事柄について指摘し批判する内容だからである。ちなみにこの点は、判決でも認定されている。目的の公益性について、二つの見方ができる。まず、外山は長年、左翼市民運動やフェミニズムの現状を批判する政治的活動を行っており、民事裁判を正面から受けて立つこともその一環である旨も公言していたから、福岡のフェミニズム運動の第一人者であるBへの批判は、当然その文脈でおこなわれたと解すべきである。また、民事裁判での陳述書である以上、公判における自分の立場を有利にするという目的も当然あったはずである。二つの目的のうちどちらを主、どちらを従と考えるにしても、とりたてて問題にはならないと思われる。しかし、判決はこれを認めなかった。公益目的は一切なく、「私的な恨み」を晴らすことが目的だったと決めつけているのである。確かに外山は過去、政治活動の場面でBと敵対しているし、「私的な恨み」がゼロとまではいえないだろうが、そんなことを言い出せば、例の拉致被害者やその家族も、「私的な恨み」に基づいて北朝鮮を攻撃していることになりかねない。Bへの批判は外山の政治活動の文脈の中で不自然でないし、である以上(政治活動はそもそも公的側面が大きいから)、当然、目的の公益性は絶対に認定されるべきであり、それすら認めないというのは、逆にまさにこの判決が公正さを明らかに欠いていることの証拠である。目的の公益性を認めないというのは判決の誤りであることは断定して、最後の、真実性の証明の問題である。この点は、はっきり言って、外山が不利である。先述のとおり、Bの息子と外山の友人がバイト先の同僚であったこと、その上でBの息子から直接聞いた話として外山の友人がその内容を外山に話したことの二点は立証されているが、それだけでは、その内容がウソではないという証明にはならないからである。外山は、それを大いにあり得る話として信用した理由をいろいろと述べており、それはそれなりに筋は通っているものの、それは「なぜ信用したか」の根拠であって、「信用できる話」と「本当な話」はイコールではない。ゆえに外山は有罪。と決めつけるのは早計である。
 刑法第38条に、「罪を犯す意思がない行為は、罰しない」とある。つまり、故意のないことは、原則として罪に問われないのである。そんなこと言ったって、現実に「過失致死」とか「過失傷害」などで罰されている人もいるではないかと思うだろう。38条には続きがある。「ただし、法律に特別の規定がある場合は、この限りでない」。つまり、故意にやったことは原則として罪にならないが、過失でも罰する場合があって、それについては例外としてちゃんと条文に明記しておくという意味であり、実際、過失致死罪や過失傷害罪は、ちゃんとその条文を設けて明記してある。しかし、名誉毀損罪には過失でも罰するという特別の定めはない。過失名誉毀損罪なる罪は存在しないのである。実際には、どうなるのか。刑法に条文はないのだが、最高裁の判例で、真実性の証明ができなかった場合でも、それを真実と「誤信」(誤って信じてしまうこと。証明できなかったからといって即、「信じたこと自体が誤り」と決めつけるのもどうかと思うが、判例ではこの言葉が使われている)した相当な理由があると認められれば、つまり故意がなかったと認められ、罰せられないことになっている。しかしこの基準もかなり厳しい。例えば、「月刊ペン」事件という有名な例があって、某大手宗教団体代表者の女性スキャンダルの報道だが、結論から言うと、まさにセックスしてるその場面を目撃した証人なり証拠写真なりがないと、「誤信しても仕方ない」とは認めてもらえないも同然の解釈で、もちろんこのスキャンダルを報じた記者は有罪判決を受けている。これでは、外山の事件で「犯罪の故意がなかったこと」は、とうてい認められないだろう。
 以上はあくまでも、日本の名誉毀損裁判の現実であって、これが正しいか否かはまた別の話である。少数意見であり、現段階で日本の裁判で採用されることはなかろうが、以下のようにも考えられる。そもそも刑事裁判では「推定無罪」といって有罪が立証されない限り、無罪として扱われる。なんらかの容疑をかけられたとする。弁護側(被告本人も含む)は、必ずしも無罪を立証する必要はない。怪しいかもしれないが、100%犯人であるという証拠はない、ということを立証できれば、無罪判決がもらえる。つまり、クロだと疑われているものを灰色にまで持っていけば無罪で、シロとまで証明しなくてもいいのである。逆に検察側は、100%犯人であることを証明しなければならない。灰色ではだめで、限りなくクロに近い灰色でもダメ、100%クロだと証明できなければ有罪にはできない。これが「推定無罪」という刑事裁判の大原則で、ここまでは少数意見でもなんでもない、専門家全員一致の話である。問題はここからだ。これまで述べてきた名誉毀損裁判の実状は、この刑事裁判の大原則に反しているのではないか。故意でなければ罰せられないのだから、検察側が有罪を主張するためには故意の存在を立証しなければならない。それができなければ、仮に「故意がありそうだ」、つまり限りなくクロに近い灰色であっても、無罪というのが刑事裁判の大原則である。しかし、名誉毀損裁判の実状では、これが逆になっているように思われてならない。つまり、弁護側が、真実性もしくは真実と「誤信」するのもやむを得ない相当な理由の存在を証明して、「故意がなかった」、つまり100%シロであることを立証しなければならない構造になっている。外山の事件においても、検察側は、ほとんど故意の存在を立証する努力をしていない。故意でなかったことを立証しなければならないのは弁護側だからである。こういうおかしな状況が生じているのは、そもそも判例が誤っているのではないか。証明されなければならないのは、故意がなかったことではなく、故意があったことであって、とすれば外山の事件では当然、無罪としなければならない。これは、日本では少数意見だが、実は少なくともアメリカでは多数意見だし、おそらくヨーロッパでもそうである。
 外山の事件ではまだ論点がある。これが、民事裁判に提出された陳述書、つまり法廷での証言であることだ。仮に、日本の法曹の多数意見である判例に従うとしても、一般の言論と法廷での証言を同列に扱うわけにはいかないのではないか。なぜなら、争いのある案件であれば、どの法廷でも、判決に際して退けられる、つまり完全な立証に失敗した、相手方への批判がおこなわれるはずで、これらがすべて名誉毀損罪の容疑の対象となり得る(判例の基準では、しかもその多くが「誤信」の相当性を認められないであろう)とするのは、あまりにも非現実的だからである。例えば外山は、民事法廷で外山をストーカーと決めつけた原告Aの陳述について、名誉毀損として立件するよう何度も警察に働きかけ、実際、同判決でもAの訴えのこの部分については退けられたにもかかわらず、警察は、告訴の受理すら拒否している。法の下の平等の観点からも、法廷での陳述に関する限り、外山は罰されてはならないし、また外山が主張したとおりこの件については起訴状に記載がないから判決の対象としてもならない(が、事実上、判決の対象とされており、これも問題である)。

 次に、ホームページへの掲載についてである。外山は、公開の裁判に関する報道であるから内容の公共性についても目的の公益性についても問題なく、また、自分が公判で陳述した内容は一字一句間違いなくこのとおりであって、地裁民事部の公判記録を確認すればよいだけの話で真実性の証明は容易であるから、完全に無罪だと主張した。
 これは確かに外山の言うとおりで、一見、筋が通っているように見える。例えば法廷で麻原が「すべて弟子のやったこと」と陳述したことを報じても、その報道をした者が麻原の弟子への名誉毀損に問われるなど考えられないだろう、といった論理である。が、実は外山には不利な判例もある。それは、新聞報道において、ある事実を「警察が発表した」と書いて名誉毀損を問題とされた場合、弁護側が証明しなければならないのは、あくまでもその事実が真実であることであって、警察発表があったこと自体ではない、という判例である。これは、外山の事件によく似ている。この判例が、外山の事件にも適用されるならば、やはり外山が証明しなければならないのは陳述の内容の真実性であって、法廷で陳述したこと自体ではないから、つまり外山は有罪ということになる。
 が、これで解決と考えるのも早計だ。というのも、やはりこれが公開の法廷でおこなわれた正式な陳述である点がネックである。裁判公開の原則は、一般市民の監視によって、裁判所が不正な裁判をおこなうことを防止するためにある。現に、ほとんど一般の関心を集めていない外山の事件で、明らかに不正な裁判がおこなわれているように、これは国家権力対個人の関係の上で重要な原則である。とくに民事裁判において、現実には裁判公開が実質を伴わない名ばかりのものとなっている中で、自分が被告となって裁かれようとしている裁判について、できうる限りの情報を公開し、自分の身を守ろうとすることは、否定してはならない大切な権利である。このことが、他の個人との間に、名誉毀損という形で利害の衝突を引き起こしたというのが、外山の事件である。しかし、人権というものが本来、国家権力の行使を制限するために発明された概念である以上、私人間の利害の調整と、個人対国家の利害の調整とが両立不可能な場合には、やはり個人対国家の利害調整を優先して取り扱うべきで、つまり本件の場合、自分が被告とされた裁判に関する情報を自分の身を守るために公開する権利が最も優先されてしかるべきで、よって有罪判決はしてはならない。以上の見解は、なにしろ前例がないから確かなことは言えないが、決して少数意見ではないと思われる。

 これまで紹介した外山無罪論がすべて退けられ、有罪であるとしても、「求刑どおり」の判決は間違いなく異常である。
 難しい話は脇へおいても、ごく平凡な話として、以下のように外山に情状酌量の余地は多数あるからである。
 ・仮にそれがどれだけ軽率で「犯罪の故意がある」に等しい愚行であったとしても、文責を明らかにした言論であること自体は否定しようがなく、つまりやはり少なくとも本人の主観としては「正当な言論活動の範囲内」であったこと。
・外山のホームページはトップページに設置したカウンターによれば一日平均10数人が訪れる程度で、客観的にはミニコミレベルである。しかもカウンターに反映されるのはトップページを訪れた回数のみで、問題の陳述書を読んだ者の人数はもっと少ないはずである。しかもカウンターに表示されるのはあくまでも「のべ人数」であり、10人が1度ずつ訪れても、一人が10度訪れても「10人」とカウントされる。よって、この人数はさらに低く見積もらなければならない。仮に平均1週間に1度ずつ訪れているとすれば、表示された人数を7で割らなければならない。
・インターネットは一般のメディアと違い、受け手の側がその情報に進んでアクセスしなければならず、本件の場合、一連の裁判を含めた外山の活動に関心を持つ者しかアクセスせず、「被害者」Bが本件事実を知り得たのもその裁判の相手方だったからであって、つまり情報の受け手の数および範囲(層)は必然的に限定されたものとなり、また受け手がその情報を真実と受け取る信用性・迫真性などにおいても格段に劣るものと言わざるを得ない。
・このような外山ホームページの具体的な規模を無視して、「ネットに掲載した」イコール「全世界に発信した」などというのはほとんど詭弁であって、SF的な妄想である。
・よって、外山の意図はどうであれ、Bの弁護士としての業務に対し、経済上の実質的な「被害」はほとんど無視しうる。せいぜいB個人の精神的「被害」が問題となるにすぎないが、これにしても、日常的に女性や子どもの人権について闘争的な弁護士活動を展開しているBがこの程度の言葉による攻撃によって深刻な心理的ダメージを受けるとはとうてい考えられず、争いごとと無縁な一般人とBとを同列に扱うべきではない。
・インターネットにおいてはむしろ匿名による悪質な個人攻撃などが深刻であり、自らの文章責任を明らかにした上でおこなわれた本件に対し、あまりに重い刑を科すことは、却ってそれらインターネットの匿名性を悪用したより悪質な行為を助長しかねない。
・これまで述べたことからも明らかなように、名誉毀損罪は外山のように法律に関して素人である者には極めて難解で、正当な言論と名誉毀損罪相当との境目を充分理解していなかったとしてもやむを得ず、刑法38条3の、「法律を知らなかったこと」が情状酌量の対象とし得る旨の規定は適用すべきである。
 ・傷害罪と名誉毀損罪では同じ刑法犯とはいえその性質は著しく異なり、また前件傷害の内容も突発的な痴話喧嘩にすぎないから、前科があることをもって犯罪傾向が進んでいると解釈すべきではない。
 その他、これまで論じた中に含まれる、あくまで裁判報道の結果として二次的に生じた事件にすぎないことなど、外山に有利な情状はこれほどまでに多い。
 にも関わらず、「求刑どおり」の判決は、端的に公正な、というよりも正常な裁判がおこなわれなかったことの結果以外ではない。そもそも法定刑ギリギリいっぱい(名誉毀損では3年)でない限り、検察側は、ある程度極端な重刑を求刑するのが常識であり、その点でも「求刑どおり」の判決は異常である。通常なら、本件は有罪としても罰金刑相当というのが、専門家にとっても妥当なところだと思われる。

 なお、控訴審で外山は偽装転向をおこない、「反省」を認められて懲役8ヶ月(もちろん実刑のままだ)に減軽されている。このことから、外山の主張と違い、公正な裁判がおこなわれていると早合点する人もあろうが、それはまったく早合点である。 
 減軽されたのはあくまでも「反省」が認められたためであり、それは控訴審で新たに生じた事情であるから、「反省」をまったく表明せず無罪を主張した一審段階では、「求刑どおり」の懲役1年の判決はあくまでも正しかった、というのが控訴審判決の立場である。だから、「反省」以外の、ここまで述べたさまざまの論点は、まったく検討されてない。「私的な恨み」に基づくもので公益目的すらないとされた点も変更されていない(この一点すら、認めてしまえば実刑の維持には説得力がなくなるだろう)。要するに、事実上、控訴棄却なのである。そもそも、単に無罪主張を撤回して「反省」しただけで3分の1も減軽されることなど通常あり得ず、そのことが逆に、裁判所側に後ろめたい事情が存在していることを告白してしまっているようにさえ思える。
 何度も念を押すが当サイトは外山が絶対に無罪だと主張するものではない(逆に有罪と決めつけるものでもない)。
 しかし、傷害事件についても名誉毀損事件についても、実刑判決は異常であり、すでにその異常な判決が半分以上執行されてしまい取り返しがつかないという事情も考慮すれば、たとえ罰金刑であれこれ以上の罰を外山に科すのは道義上問題があり、外山は即刻釈放されるべきとするのは、当サイトの基本的な立場である。


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